新潟水俣病は昭和40年6月12日に阿賀野川下流域の河口から1.5 kmの下山地区と3 kmの津島屋地区に合わせて5名の水俣病患者が発生したとして公表されました。新潟水俣病の発生域は、中・高校生用の教科書で阿賀野川流域と記されています。熊本水俣病は、水俣湾沿岸住民が初発患者です。二つの水俣病のメチル水銀汚染源の所在は、初発患者の時間分布および地理分布の情報によって、熊本水俣病は水俣湾内に在り、新潟水俣病は阿賀野川下流域の下山・津島屋地区に在る、と考えられます。実際、前者は水俣湾内の百間港・百間排水口と特定されています。しかし、後者は、阿賀野川流域ではありますが、河口から65km上流の昭電鹿瀬工場であるとされています。昭電鹿瀬工場との特定に至った経緯が、その後の新聞記事から分かります。
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新潟水俣病問題の最初の報道記事には、二人の新潟大教授の話として『こんどの中毒は工場廃水によるものか農薬か、あるいはその他のものか、まったく原因がつかめないため、14日(65.6.14)から20人以上の調査団を現地に派遣して、中毒者の発見、分布状態をつかみ、原因を究明したい』と掲載されています(新潟日報,65.6.13)。メチル水銀汚染源の所在地が患者の時間・地理分布によって明らかになることを、二人の新潟大教授はしっかり把握し、はっきりと指摘しています。ただ、原因がつかめないとだけ述べればよいところを、患者がメチル水銀中毒者であるからといって、工場廃水・農薬・その他のものと可能性を順位付けして述べています。
しかし、翌14日の社説では『今回の阿賀野川流域の患者については、その原因が、はたして上流の工場からの汚水によるものか、農薬によって川と魚が汚染されたものであるか、まだ明らかでない』と記しています(新潟日報,65.6.14)。前日の二人の新潟大教授の話を受けた社説でありながら、すでに『上流の工場からの汚水によって川と魚が汚染された』との主旨が見えています。しかし、まだ『農薬(水銀系農薬)による汚染』は否定していません。それでも、前日の6月13日にはまだ工場廃水とだけの表現であり、何処々々のと特定していません。実際、その当時、アセトアルデヒド生産工場は、阿賀野川河口から東に900mの新井郷川沿いの日本ガス化学と阿賀野川河口から65km上流の昭和電工の二か所に在りました。また、新井郷川の河川水の一部は阿賀野川に流れ込んでいます。にもかかわらず、一日にして阿賀野川上流の昭和電工が対象になっています。予断は禁物なのに.....。この先入観に囚われた『汚染源の特定論」が、その後の貴重な研究者の意見の実施を妨げたように思います。
一方、半谷(東京都立大教授)は、『水俣湾の水銀汚染の海底のどろについて調査した結果、汚染源を中心に泥の中の水銀含量がだんだん減少しながら拡がっていることがはっきり出た。こんどの場合も汚染源をつきとめることはさほど困難なことはないと思う』と述べています(新潟日報,65.6.15)。前日までの記事ネタを取材した記者と異なる記者の取材による記事だったのかもしれません。この日以降の記述で、半谷の二文字に会うことはありませんでした。
この半谷の意見は貴重であり、汚染源(発生場所)を特定する方法を、実例を示して紹介しています。
半谷の意見がなぜ貴重かといえば、汚染源発生場所が最も汚染物質の濃度が高いということを水俣湾の例で示しているということです。新潟水俣病問題の調査は熊本水俣病問題の教訓を生かして行われたとされていますが、半谷の参加はなく、その意見を汲み取った跡も見られていません。結局、阿賀野川のメチル水銀汚染調査として、患者調査は対照地を右岸河口域の松浜漁港地区とし、左岸下流域で実施しています。一方、環境調査は、下流域の河川底質の水銀測定は実施したものの、底質水銀の地理分布では汚染源所在地を特定することはできませんでした。半谷の意見を尊重しておれば、汚染源所在地が調査時点で阿賀野川下流域から消滅していた可能性を想定すべきです。ところが、65km上流の昭和電工鹿瀬工場に直接関連した排水口や廃棄物処理のボタ山などの土壌水銀は何度も機会をつくり調べています。既にメチル水銀汚染源が工場廃液だと言っているようなものです。鹿瀬工場と下流域の患者発生地区との中間(中流域)の環境調査も実施してはいますが、少数例に止まっています。汚染源所在地からの距離とともに汚染物質の濃度が低下するというような明確な調査目的が無かったのでしょう。また、患者調査の一環として1458人の住民の頭髪総水銀測定が実施されています。しかし、その対象者のほとんどが河口から15kmまでの集落住民であり、中・上流域の住民は60人で(全対象者の4.1%)、その内、鹿瀬地区住民は4人です(*1)。阿賀野川流域における患者調査と環境調査との接点が曖昧です。鹿瀬工場が汚染源所在地である可能性は否定できないでしょう。その可能性を吟味する上で、鹿瀬工場周辺の環境調査および住民における患者調査は共に必須です。しかし、環境調査は、鹿瀬工場と直接的に関連する限定された場所に止まり、患者調査は4人です。このような調査の結果を基に、新潟水俣病裁判では昭電鹿瀬工場の廃液が新潟水俣病におけるメチル水銀汚染源であると特定しました。当然のように、裁判では、実態とはかけ離れた理論を構築し、被告(昭電)の完全敗訴を引き出しています。一方、これらの調査研究班の結果を受けた政府見解では、工場廃液は新潟水俣病におけるメチル水銀汚染源の基盤であるとしながらも、汚染源であると特定していません。調査研究班に対しても、政府自体にも、それなりの逃げ道を作っています。(*1);当時の患者調査は、ほぼ下流域住民だけを対象にしており、中・上流域の患者の存在を想定していなかったと言えるでしょう。しかし、認定患者の1/4は中・上流域の住民です。2015年12月末日時点の認定患者数は、下流域529人(75.1%)、中・上流域174人(24.7%)、その他1人(0.1%)の704人です。当時の調査対象地が適切でなかったということになります。なお、鹿瀬工場の在った鹿瀬町住民における認定者は3人です。頭髪総水銀濃度の測定対象者4人との関係は知り得ません。その4人中の3人が認定者だったとすると、1965年の頭髪総水銀濃度が水俣病認定の資料になったように思われます。1965年に頭髪総水銀濃度を測定していない人々から認定者が出なかったことになります。メチル水銀汚染源所在地においては、その後遅発性発症者が出なかったということでしょうか.....。
鹿瀬工場からの廃液がメチル水銀汚染源であるならば、汚染源所在地を中心に土壌中の水銀含量がだんだん減少しながら広がっているのだから、鹿瀬工場から整然と水銀濃度が低下しているデータを示すことができていれば、昭電は愚の根も出なかったはずです。そのような調査が何故計画されなかったのかは明らかではありません。確かに、鹿瀬工場と直接的に関連する地点で高濃度のメチル水銀を検出することは、相当な結果です。高濃度の総水銀は、鹿瀬工場内からそれなりに検出しています。しかし、決め手となったのが、排水口に生えた水苔(総水銀濃度130~460ppm)から、0.02ppm相当のメチル水銀を検出したことです。現在の一般的知識からは、そもそも、総水銀130ppmの水苔が生きていることは有り得ないはずです。したがって、実際は水苔に付着した土壌の総水銀濃度と考えることができます。そうであれば、460ppmという超高濃度の総水銀濃度の検出も問題ありません。0.02ppmは130ppmの0.0154%です。無機水銀として塩化第二水銀(HgCl2)を100ppm、Wisconsin川の底質に加え、12週間培養したところ、メチル水銀が200ppb相当生成したという実験結果があります。無機水銀の0.2%のメチル水銀が生成したことになります。水苔の0.02ppmのメチル水銀は、土壌中の無機水銀のメチル化によって生成する濃度より低いようです。この水苔の0.02ppmのメチル水銀が昭電鹿瀬工場の廃液がメチル水銀汚染源であるという決定的証拠という、狐につままれる実態があります。鹿瀬工場の廃液がメチル水銀汚染源であるとの予断による研究班の調査であったことで、結論が決まっていたのでしょう。
上記したように、政府の答申は工場廃液説ではなく、工場廃液基盤説です。実際、中流域の数少ないデータの中にも、工場廃液説を否定できる、少なくとも工場廃液が汚染源であるための必要条件を満たせないデータがあります。予断を基にした調査によって得られた膨大な資料はあるのですが、工場廃液説としての答申に行きつかなかったのでしょう。その上、政府(政権)側は知らなかったかもしれませんが、新潟水俣病裁判を通して官僚(厚生省・農林省・通産省)側は、1964年6月下旬から7月に掛けて河口から5kmの阿賀野川に架かる泰平橋下の左岸河川敷に大量の紙袋入りの水銀系農薬が野積みされていたことを知っていた節があります。官僚側の巧妙な道筋の構築の下で政府答申がなされたのかもしれません。
政府は官僚のオリエンテーションによって、新潟水俣病のメチル水銀汚染源を工場廃液と特定せず、基盤となっていると答申しました。農薬(稲イモチ病対策の酢酸フェニル水銀系農薬の大量散布)説が明らかにされても問題が起きないように、表現したのかもしれません。
2015.3.24(投稿済)....再掲・訂正&「加筆・追記」
2017年10月7日再投稿(加筆・訂正あり)