新潟水俣病は昭和40年6月12日に阿賀野川下流域の河口から1.5 kmの下山地区と3 kmの津島屋地区に合わせて5名の水俣病患者が発生したとして公表されました。新潟水俣病の発生域は、中・高校生用の教科書で阿賀野川流域と記されています。熊本水俣病は、水俣湾沿岸住民が初発患者です。二つの水俣病のメチル水銀汚染源の所在は、初発患者の時間分布および地理分布の情報によって、熊本水俣病は水俣湾内に在り、新潟水俣病は阿賀野川下流域の下山・津島屋地区に在る、と考えられます。実際、前者は水俣湾内の百間港・百間排水口と特定されています。しかし、後者は、阿賀野川流域ではありますが、河口から65km上流の昭電鹿瀬工場であるとされています。昭電鹿瀬工場との特定に至った経緯が、その後の新聞記事から分かります。

続きを読む

新潟水俣病問題の最初の報道記事には、二人の新潟大教授の話として『こんどの中毒は工場廃水によるものか農薬か、あるいはその他のものか、まったく原因がつかめないため、14日(65.6.14)から20人以上の調査団を現地に派遣して、中毒者の発見、分布状態をつかみ、原因を究明したい』と掲載されています(新潟日報,65.6.13)。メチル水銀汚染源の所在地が患者の時間・地理分布によって明らかになることを、二人の新潟大教授はしっかり把握し、はっきりと指摘しています。ただ、原因がつかめないとだけ述べればよいところを、患者がメチル水銀中毒者であるからといって、工場廃水・農薬・その他のものと可能性を順位付けして述べています。

しかし、翌14日の社説では『今回の阿賀野川流域の患者については、その原因が、はたして上流の工場からの汚水によるものか、農薬によって川と魚が汚染されたものであるか、まだ明らかでない』と記しています(新潟日報,65.6.14)。前日の二人の新潟大教授の話を受けた社説でありながら、すでに『上流の工場からの汚水によって川と魚が汚染された』との主旨が見えています。しかし、まだ『農薬(水銀系農薬)による汚染』は否定していません。それでも、前日の6月13日にはまだ工場廃水とだけの表現であり、何処々々のと特定していません。実際、その当時、アセトアルデヒド生産工場は、阿賀野川河口から東に900mの新井郷川沿いの日本ガス化学と阿賀野川河口から65km上流の昭和電工の二か所に在りました。また、新井郷川の河川水の一部は阿賀野川に流れ込んでいます。にもかかわらず、一日にして阿賀野川上流の昭和電工が対象になっています。予断は禁物なのに.....。この先入観に囚われた『汚染源の特定論」が、その後の貴重な研究者の意見の実施を妨げたように思います。

一方、半谷(東京都立大教授)は、『水俣湾の水銀汚染の海底のどろについて調査した結果、汚染源を中心に泥の中の水銀含量がだんだん減少しながら拡がっていることがはっきり出た。こんどの場合も汚染源をつきとめることはさほど困難なことはないと思う』と述べています(新潟日報,65.6.15)。前日までの記事ネタを取材した記者と異なる記者の取材による記事だったのかもしれません。この日以降の記述で、半谷の二文字に会うことはありませんでした。

この半谷の意見は貴重であり、汚染源(発生場所)を特定する方法を、実例を示して紹介しています。

半谷の意見がなぜ貴重かといえば、汚染源発生場所が最も汚染物質の濃度が高いということを水俣湾の例で示しているということです。新潟水俣病問題の調査は熊本水俣病問題の教訓を生かして行われたとされていますが、半谷の参加はなく、その意見を汲み取った跡も見られていません。結局、阿賀野川のメチル水銀汚染調査として、患者調査対照地を右岸河口域の松浜漁港地区とし、左岸下流域で実施しています。一方、環境調査は、下流域の河川底質の水銀測定は実施したものの、底質水銀の地理分布では汚染源所在地を特定することはできませんでした。半谷の意見を尊重しておれば、汚染源所在地が調査時点で阿賀野川下流域から消滅していた可能性を想定すべきです。ところが、65km上流の昭和電工鹿瀬工場に直接関連した排水口や廃棄物処理のボタ山などの土壌水銀は何度も機会をつくり調べています。既にメチル水銀汚染源が工場廃液だと言っているようなものです。鹿瀬工場と下流域の患者発生地区との中間(中流域)の環境調査も実施してはいますが、少数例に止まっています。汚染源所在地からの距離とともに汚染物質の濃度が低下するというような明確な調査目的が無かったのでしょう。また、患者調査の一環として1458人の住民の頭髪総水銀測定実施されています。しかし、その対象者のほとんどが河口から15kmまでの集落住民であり、中・上流域の住民60人で(全対象者の4.1%)、その内、鹿瀬地区住民4人です(*1阿賀野川流域における患者調査と環境調査との接点が曖昧です。鹿瀬工場が汚染源所在地である可能性は否定できないでしょう。その可能性を吟味する上で、鹿瀬工場周辺の環境調査および住民における患者調査は共に必須です。しかし、環境調査は、鹿瀬工場と直接的に関連する限定された場所に止まり、患者調査は4人です。このような調査の結果を基に、新潟水俣病裁判では昭電鹿瀬工場の廃液が新潟水俣病におけるメチル水銀汚染源であると特定しました。当然のように、裁判では、実態とはかけ離れた理論を構築し、被告(昭電)の完全敗訴を引き出しています。一方、これらの調査研究班の結果を受けた政府見解では、工場廃液は新潟水俣病におけるメチル水銀汚染源の基盤であるとしながらも、汚染源であると特定していません。調査研究班に対しても、政府自体にも、それなりの逃げ道を作っています。(*1当時の患者調査は、ほぼ下流域住民だけを対象にしており、中・上流域の患者の存在を想定していなかったと言えるでしょう。しかし、認定患者の1/4は中・上流域の住民です。2015年12月末日時点の認定患者数は、下流域529人(75.1%)、中・上流域174人(24.7%)、その他1人(0.1%)の704人です。当時の調査対象地が適切でなかったということになります。なお、鹿瀬工場の在った鹿瀬町住民における認定者は3人です。頭髪総水銀濃度の測定対象者4人との関係は知り得ません。その4人中の3人が認定者だったとすると、1965年の頭髪総水銀濃度が水俣病認定の資料になったように思われます。1965年に頭髪総水銀濃度を測定していない人々から認定者が出なかったことになります。メチル水銀汚染源所在地においては、その後遅発性発症者が出なかったということでしょうか.....。

鹿瀬工場からの廃液がメチル水銀汚染源であるならば、汚染源所在地を中心に土壌中の水銀含量がだんだん減少しながら広がっているのだから、鹿瀬工場から整然と水銀濃度が低下しているデータを示すことができていれば、昭電は愚の根も出なかったはずです。そのような調査が何故計画されなかったのかは明らかではありません。確かに、鹿瀬工場と直接的に関連する地点で高濃度のメチル水銀を検出することは、相当な結果です。高濃度の総水銀は、鹿瀬工場内からそれなりに検出しています。しかし、決め手となったのが、排水口に生えた水苔(総水銀濃度130~460ppm)から、0.02ppm相当のメチル水銀を検出したことです。現在の一般的知識からは、そもそも、総水銀130ppmの水苔が生きていることは有り得ないはずです。したがって、実際は水苔に付着した土壌の総水銀濃度と考えることができます。そうであれば、460ppmという超高濃度の総水銀濃度の検出も問題ありません。0.02ppmは130ppmの0.0154%です。無機水銀として塩化第二水銀(HgCl2)を100ppm、Wisconsin川の底質に加え、12週間培養したところ、メチル水銀が200ppb相当生成したという実験結果があります。無機水銀の0.2%のメチル水銀が生成したことになります。水苔の0.02ppmのメチル水銀は、土壌中の無機水銀のメチル化によって生成する濃度より低いようです。この水苔の0.02ppmのメチル水銀が昭電鹿瀬工場の廃液がメチル水銀汚染源であるという決定的証拠という、狐につままれる実態があります。鹿瀬工場の廃液がメチル水銀汚染源であるとの予断による研究班の調査であったことで、結論が決まっていたのでしょう。

上記したように、政府の答申は工場廃液説ではなく、工場廃液基盤説です。実際、中流域の数少ないデータの中にも、工場廃液説を否定できる、少なくとも工場廃液が汚染源であるための必要条件を満たせないデータがあります。予断を基にした調査によって得られた膨大な資料はあるのですが、工場廃液説としての答申に行きつかなかったのでしょう。その上、政府(政権)側は知らなかったかもしれませんが、新潟水俣病裁判を通して官僚(厚生省・農林省・通産省)側は、1964年6月下旬から7月に掛けて河口から5kmの阿賀野川に架かる泰平橋下の左岸河川敷に大量の紙袋入りの水銀系農薬が野積みされていたことを知っていた節があります。官僚側の巧妙な道筋の構築の下で政府答申がなされたのかもしれません。

政府は官僚のオリエンテーションによって、新潟水俣病のメチル水銀汚染源を工場廃液と特定せず、基盤となっていると答申しました。農薬(稲イモチ病対策の酢酸フェニル水銀系農薬の大量散布)説が明らかにされても問題が起きないように、表現したのかもしれません。

6月13日・14日に書かれている農薬は、正に水銀系農薬を指していると思われます。水銀系農薬は主に種子殺菌用3-4月に使用)とイモチ病対策の散布用7-9月に使用)との二種類です。この時点では、昭電による塩水楔説の発言前なので、記者を含め、新潟水俣病と前年の新潟地震との関わりがあったことを誰もが予想しなかったことでしょう。その上、水銀系農薬による種子殺菌も農薬散布も阿賀野川流域で特異的に使用されたのではなく、全国の稲作・水田で競って使用されました。したがって、種子殺菌と散布に使った水銀系農薬が、この阿賀野川下流域の5名の水俣病患者のメチル水銀汚染源であると特定できないことは、容易に判断できるでしょう。むしろ、それらが汚染源でないと言えるほどです。しかし、疫学調査では、これらの水銀系農薬の使用については調査すべきです。もちろん、調査団を差し置いて、水銀系農薬は汚染源でないと考えるのは記者の自由です。しかし、この記事によって読者は、昭和電工鹿瀬からの工場廃水とほぼ特定されたと捉えたのではないでしょうか。しかし、調査団は、患者に水銀系農薬使用について調査しています。また、対照地として下山地区の対岸(川幅1km余の右岸河口域)の漁師町の松浜地区を選んでいます。調査団は下流域の左岸下山・津島屋地区にメチル水銀汚染源があることを想定しています。正しいと思います。

2015.3.24(投稿済)....再掲・訂正&「加筆・追記」
2017年10月7日再投稿(加筆・訂正あり)

近年、メチル水銀の生物濃縮は哺乳類を除く水棲動物の場合、経口・経腸(食物連鎖・メチル水銀は血清中たんぱく質に結合)に加えて経鰓(エラ呼吸・メチル水銀は赤血球たんぱく質に結合)の濃縮経路が存在すると考えられています。ところが、熊本および新潟の水俣病問題において「公害は食物連鎖(経口・経腸)による生物濃縮がその基盤システム」とされ、その発生状況が水棲生物の食物連鎖網における生態系の異常の時間・地理分布を通して調査されてきました。分子の大きい有機物を鰓経由で血液に取り込むことはないでしょう。しかし、遡上魚では海水下および淡水下で鰓の塩類に対する代謝を変える(海水中では塩類吸収を止め、淡水では積極的に塩類を取り込む)ことで、それぞれの環境で生存・活動が可能になります。メチル水銀(CH3Hg)は有機物・有機金属(炭素Cと水銀Hgが直接結合している)なので鰓は塩類として認識しないはずですが、鰓に集まった赤血球分子内のシステイン-システインのS-S(硫黄原子-硫黄原子)結合にS-CH3-Hg-Sとして結合・取り込まれると考えられます。先人研究者の水俣病研究でどうにも説明出来なかったことの答えのヒントが、メチル水銀がエラ経由で生物濃縮することを認識することから生み出されることが期待されます。

続きを読む

新潟水俣病関連の調査では昭電鹿瀬工場(阿賀野川河口から 55km上流)の操業中の 1963年の 8月稲イモチ病対策の水銀系農薬散布時期)に阿賀野川上流域の①石戸(河口から41km上流)・②佐取(同37km)及び中流域の③新郷家(同24km)で採集された魚齢3-4か月の幼魚(ウグイ;主に水生昆虫を食むが雑食性 vs オイカワ;草食性の強い雑食性→食物連鎖レベルからするとウグイの方がオイカワより高位、すなわち水銀レベルは;ウグイ>オイカワと考えられる)の総水銀濃度が①石戸;ウグイ7.5ppm  >オイカワ5.8ppm,②佐取;ウグイ5.2ppm  オイカワ 6.2ppm,③新郷家;ウグイ4.6ppm  オイカワ 5.9ppm、と報告されています(水俣病,pp217,青林舎,1979)(*1)。①石戸(鹿瀬工場から 14km下流)、②佐取(同18km)、および③新郷家(同31km)と鹿瀬工場からの距離がかなり異なっており、幾つかの支流からの河川水が加わっているにもかかわらず、幼魚の総水銀濃度はほぼ同等です。この状況では、少なくとも、工場廃液が唯一のメチル水銀汚染源であるとの説明は難しいと思います。(*1);これらの川魚の水銀分析は、新潟水俣病問題が1965年6月に報告された後に、ある大学の研究室からホルマリン漬けの川魚の存在の連絡があり、複数の研究機関で実施されました。ホルマリン(ホルムアルデヒドの水溶液)漬けの試料なので、当時のジチゾンを使用した水銀分析法では分析値が実際より低かった可能性は否定できません。すなわち、川魚の真の総水銀濃度がさらに 1 ppm くらい高かったことも考慮する必要があると思います。

 4 ppm超という高レベルの総水銀濃度であることを月齢3~4か月の幼魚が食物連鎖を通して生物濃縮したとする説明には無理があります。もし、そんな幼魚がメチル水銀を食物連鎖を通して生物濃縮しながら成長すれば、一年魚のメチル水銀(≒総水銀)レベルの期待値は数10 ppmに達します。そんなメチル水銀汚染魚が生き続けることはあり得ません。すなわち、阿賀野川上流・中流の川魚がほとんど斃死していたことになります。しかし、そのようなことは全く報告されていません。

また、②佐取と③新郷家のオイカワ>ウグイという総水銀レベルの逆転した関係を食物連鎖を経たメチル水銀の生物濃縮だけでは説明できません。しかし、これらの阿賀野川の上流域・中流域の川魚の総水銀濃度が非常に高いという事実が、操業中の昭電鹿瀬工場からメチル水銀が流されていたことを証明するものと言われてきました。それでも、1963年5月には昭電鹿瀬工場から 10km下流(河口から 55km上流)に揚川ダムが竣工し、ダム水路式発電が開始しています。①②③の河川水が鹿瀬から直接流れ込んだものではなく、揚川ダムで一旦停留したことを忘れてはいけないでしょう。一方、8月は稲イモチ病対策の水銀系農薬が大量散布される主たる期間です。阿賀野川流域の水田から水銀系農薬に由来するメチル水銀が阿賀野川本流・支流に流出し、鰓(えら)経由で川魚の血液に生物濃縮された分が含まれている可能性は否定できないでしょう。しかし、ここでは、鰓経由のメチル水銀の生物濃縮についてはひとまず棚上げして次に進むことにします。

熊本水俣病のメチル水銀汚染レベルの歴史(時間的・地理的変動)は生態系の異常から確かめられます。;①1950~漁師達が競って、チッソの百間排水口(百間港)に漁船の繋留をしたことに始まり【船底に付着したフジツボや二枚貝等が工場廃液などの有機物の腐敗による酸素欠乏によって死滅・剥離することで、普段なら船足確保のために必須の船底掃除をすることなく、船を百間港に繋留するだけの労作で(重労働せずに)船底掃除が完了します。さらに木造船であれば船底に濃厚なメチル水銀が浸み込むことでトリブチル錫に似た船底塗料のような働きで船底生物の付着予防が完了します】、②1952~排水口周辺で多数の浮魚の発生(これも沿岸域において酸欠状態であったと考えられます)、③1952~水俣湾内の排水口に比較的近い海岸で二枚貝が育たず、口を開けた状態で腐った(懸濁物食の動物=低次動物への影響,口の開いた二枚貝を食べたカラスが飛行中に落下することも観察されています⇒正に、飛べない=筋力低下というMeHg中毒症状です)、④1953~水俣湾に飛来した冬鳥をトリモチで捕獲できた(筋力低下で飛び立てない⇒正に、メチル水銀中毒症状です)、⑤1953年8月、ネズミが大繁殖した(実はネコがほぼ全滅した=原田正純医師の記録では74匹死/121匹飼育)、という生態系の異常例です。

①~⑤はMeHg汚染における世間の常識である食物連鎖の例として語り継がれています。しかし、食物連鎖の低次から高次へと正しく連続していません。③二枚貝(一次消費者)よりも②魚(数次消費者を含む)が先に発生しています。したがって、②の原因がメチル水銀の食物連鎖による毒性発現ではなく、単に濃厚な工場廃液(化学的酸素要求量が極めて高くなる⇒酸素欠乏)による無酸素化・酸欠であることの説明として成立します。ネズミの大繁殖に関しても、大繁殖したのはクマネズミです。ドブネズミでなかったという記事は見当たりません。クマネズミ(漁網の被害が甚大だったので大騒ぎした=当時、家ネコはネズミ退治のために飼育しており、餌はとくに与えていません)が大繁殖し、ネコが狂死したのであれば、食物連鎖に逆行する生態系の異常になります。しかし、ネコの食餌がクマネズミではなく魚であれば、食物連鎖に沿っていることになります。後々には、ネコ狂死がメチル水銀の濃厚汚染の指標とされています。それでも、全滅するほどのネコ狂死は水俣湾沿岸だけであり、八代海の島々や出水、芦北では全滅するほどではありませんでした。水俣湾沿岸では季節差の小さなメチル水銀の濃厚汚染状態であり(毎日排出される工場廃液が汚染源)、八代海では季節に依存した(工場廃液とは異なる汚染源の存在)濃厚汚染が発生していたことが想起されます。①と②を除く③→④→⑤が食物連鎖に沿った生態系の異常であったと言えるでしょう。

すなわち、ネコの狂死数/飼育数の分布を比較すれば、メチル水銀汚染の実態(最も汚染の酷い場所=汚染源の発生場所)を特定することができるかもしれません。ただし、水俣のような漁業地のネコは、北海道のヒグマのように積極的に漁労はしないでしょうから、ネコ狂死の初発地が汚染源の発生地であるとは特定しにくいと思います。単発的なネコ狂死は1937年、1942年、および1949年にも発生したという記録が残っています。ただし、疫学的には単発的なネコ狂死は、水俣湾の魚のメチル水銀レベルが濃厚であったということを説明できるものではありません。しかし、水俣でネコ狂死が多発し、急性・劇症患者が連続発生したのが1953年で一致しています。すなわちネコとヒトが魚食という点では同じ食物連鎖レベルであることを示しています。高次消費者としての哺乳類のメチル水銀中毒では、正に食物連鎖だけで説明できるようです。

ネコが全滅するほど被害が大きかったのはネコにとってタウリン摂取が必須であり(ネコにおけるタウリン不足は網膜萎縮によって視力を失う;カツブシは単に好物だから飛びつくのではなく、視力維持のための必須栄養素であるタウリン確保のための優良な食餌であることをネコが知っているということのようです;100g当たりのタウリン量 → カツオ 80mg >イワシ 20mg,ネコに → カツブシ >煮干し?!?)、水俣湾沿岸で最も手軽なタウリン獲得法は、動き回るネズミを捕えることではなく、煮干し作りのために天日干しの動かないカタクチイワシを失敬することだったということでしょう【水族館の大水槽でマグロとイワシの群れが放たれていても、マグロはイワシ群を追跡捕獲しないようです.....マグロは水族館から与えられる食餌を待ち望み獲得する(給餌を得る) ⇔ 生物は最も有効な(楽な)エネルギー獲得術をすぐさま会得するようです】。

熊本大でネコ発症実験が多数例、行われました。しかし、水俣から連日、熊本大に送られた水俣湾の魚(高次消費者・経口/経腸濃縮)を食べさせたにもかかわらず成功しませんでした。それは熊大に送った魚(魚肉)のメチル水銀レベルが一次消費者(カタクチイワシ・経鰓濃縮)ほど高くなかった(*2)という単純な理由だったと考えられます。(*2);経口・経腸のメチル水銀が最初に集積されるのは肝臓なので実験ネコ用に送られてきた肉ではなく内臓を食餌させれば発症しただろうと考えます。

えら経由(経鰓)のメチル水銀は赤血球に結合・取り込まれているので、酸素供給が滞るほど高いメチル水銀濃度の結合でないかぎりカタクチイワシの行動に異常は見られないでしょう。実際、 多くの魚種(経口・経腸によるメチル水銀の生物濃縮が主体)で大量斃死が確認されましたが、カタクチイワシ(経鰓によるメチル水銀の生物濃縮が主体)の斃死は確認されていません。それでも、カタクチイワシの目・鰓・内臓を除去しない丸ごとを食餌にするので、鰓経由で赤血球に結合したメチル水銀および経口・経腸で生物濃縮したメチル水銀を丸のまま食することになり、実験ネコのメチル水銀曝露量が十分に確保されることが期待できます。

ところで、住民の水俣病の発症が単純に魚食量に依存したと考えたのか、食した魚介類の種類についての調査報告が見当たりません。新潟水俣病の患者がとくに二ゴイ(魚食性の強い雑食性)を食したという報告があるように、熊本水俣病の患者がどんな魚介類をどのくらい食していたかという調査が為されておれば、水俣湾のメチル水銀の地理分布(汚染度分布)が推測できたと思われます。魚が生物濃縮したメチル水銀による中毒で水俣病が発生したという知識を背景とし、阿賀野川下流域のメチル水銀汚染問題における疫学調査では、住民が摂食した川魚の種類および量が調べられています。熊本水俣病事件の経験を活かした新潟水俣病の一部の疫学調査【この場合、住民のメチル水銀曝露量(魚種・魚食量)の推定】が適切であったことが伝わってきます。

熊本水俣病の公式発見(1956年5月1日)は水俣湾内南西の月浦・坪谷(ツボタン;百間排水口から 1.5kmの距離)の海岸に住んでいた幼い姉妹(5歳と3歳)の発症でした。この一家は家の下の磯で採った貝類【状況では二枚貝(一次消費者)と推測される】を毎日のように食していたそうです。しかし、ご両親もこの姉妹の姉さん(12歳)も、その時は発症していません。身体の小さな幼い姉妹の食した量がご両親や姉さんより少量であっても、体重あたりのメチル水銀曝露量が中毒量を超えたということでしょう(脳神経系の発達期にあたる幼児にとってメチル水銀感受性が高いことの現れと考えられます)。3歳の妹さんは現在も存命ですが、5歳の姉さんは発症後3年たたずに亡くなっており、体重当たりの二枚貝(???)の摂食量がとくに多かったことが指摘できます。一方、新潟では幼い子たちの急性・亜急性水俣病の発症は報告されていません。新潟水俣病がアセトアルデヒド生産工場の廃液による長期連続メチル水銀汚染公害であるとするには、幼い子たちに急性・亜急性患者が発生していない点で、熊本水俣病との関連の一致性が得られていません。当時、阿賀野川流域でシジミを日常的に食していた家族が無かったのかもしれませんが......。

ネコ発症実験は、当時の水俣保健所長がヒバリガイモドキ(ムール貝に似た二枚貝;岩礁に付着して浮遊物を吸引捕食する)や煮干しを食餌として初めて成功しました(7匹中5匹が発症)。一次消費者【この場合、ヒバリガイモドキやカタクチイワシ=煮干し →どちらもエラ呼吸( 経鰓)で生物濃縮されたメチル水銀が赤血球に結合している → 丸のままの個体】を食餌とすることが発症の決め手であると指摘したいと思います。煮干し(一次消費者)を食べたネコが発症することを熊本大研究者が把握しておれば、ネコの食餌確保も容易だったでしょう。実験ネコへの食餌の確保のための水俣湾での漁が徒に終わったのはシャレにもなりません。熊本大研究者は水俣湾沿岸住民に多数の元気なネコを預け、その発症の一部始終の報告を求めています。預けられたネコ達は自由摂食でしたので、煮干し作りのための干したカタクチイワシを失敬したことでしょう。預けられたネコがすべて発症したそうです。熊本大研究者(医学者)のネコ発症の一部始終への関心は高かったことでしょう。しかし、ネコの預かり先の住民の健康状態に関心を持たなかったようです。それらの研究者が住民の健康状態に関心を寄せず、ネコが発症することが最大関心事だったとは、情けない話(*3)です。住民が一見すると元気だったのかもしれません。しかし、ネコが発症したのですから、住民のメチル水銀曝露量は尋常ではなかったと思われます。飼い猫の発症という項目が水俣病認定の疫学条件に含まれても良いように思います。(*3);原田正純医師は、水俣病の原因の検証についての講話中にしばしば話題にされていた。

一方、新潟水俣病では熊本水俣病で見られた低次消費者における異常の発生を経験することなく(*4)、突然のように高次消費者においてメチル水銀中毒(生態系の異常)が発生しています。実際は、急性水俣病患者が1964年8月初発し、ネコ狂死の連続発生もまた同年8月から始まりました。新潟では、新潟水俣病が公表された後、すなわち急性・亜急性水俣病患者および狂死ネコの発生が終息した後に、ネコ発症実験が阿賀野川の川魚を餌として行われています(1966年1月まで3か月間飼育)。結果は、実験ネコ1例の各臓器中総水銀濃度が測定されていますが「発症した」とは報告されていません。熊本大研究室でも水俣湾産魚を餌としたにもかかわらず実験ネコは狂死しませんでした。(*4);ところで、新潟水俣病の発生後の調査で、阿賀野川流域の生態系の異常としては発生地が限定されていますが、1963年夏の下流域において、1例のネコ死(狂死か否かは未確認)、および川魚の立ち泳ぎがあったとのことです。その上、川魚の立ち泳ぎに関わると思われる川魚のヤス漁(魚突き漁)が子供達の間で流行ったと報告されています。1963年夏の阿賀野川下流域の川魚が弱っていたことを説明する記録と言えるかもしれません。ただし、1963年8月に阿賀野川中流・上流で採集された3-4か月齢の幼魚の総水銀濃度が4-7ppmという高濃度であったことは前述しましたが、上・中流域で川魚の立ち泳ぎなどは報告されていません。もし、これらの現象がメチル水銀汚染によって発生していたのであれば、夏季の稲いもち病対策として水田に大量散布した酢酸フェニル水銀系農薬(セレサン石灰)由来のメチル水銀が、阿賀野川全流域の汚染源であり、それらのメチル水銀が下流域に集積したことで、下流域に限定されたこのような事が発生した可能性が問えるのではないでしょうか。

実験ネコの肝臓・腎臓・脳の総水銀濃度はそれぞれ10074,および1.7ppmと報告されています。の1.7ppmは、熊本の発症ネコの推定閾値 4.1~8ppmに遠く及んでおらず、「発症していない」可能性が極めて高いと考えられます。一方で腎臓の74ppmは、熊本の発症ネコの推定閾値6.8~12ppmを大幅に超えています。この差異が、実験ネコに与えた川魚中のメチル水銀濃度が熊本の実験ネコに与えられたヒバリガイモドキのそれらよりも相当に低かったことから生じたのではないかとも考えられますが、1例の報告では何の結論も得られません。水俣湾沿岸でのネコは煮干し用のカタクチイワシ(一次消費者)を食して自然発生的に狂死に至ったようですが、阿賀野川下流域の水俣病患者宅の家ネコは患者が主として食したニゴイのお裾分けで発症・狂死したと思われます。それ故、ネコ発症実験でも食餌としてニゴイを用いたことが予想出来ます。しかし、1965年7月以降(26人目の急性・亜急性患者の発症年月)のニゴイのメチル水銀レベルではネコの食餌量に限界があるために、ネコ発症の閾値を超える曝露量に達しなかったと考えられます。したがって、阿賀野川下流域の濃厚なメチル水銀汚染が1964年夏から翌1965年夏までの短期間に止まり、長期連続的に続かなかったことは明らかでしょう。

これが、筆者の熊本と新潟ではメチル水銀汚染源が異なるという発想に繋がっています。新潟の急性・亜急性患者1965年7月までに発症した26人に過ぎません。この26人は阿賀野川左岸(日本海を見て)の河口から1.5~6 km16人右岸の河口から5~8 km8人です。昭和電工鹿瀬工場は河口から65 kmの上流で操業していました。残りの650人を超える認定患者(2015年12月末日時点で、総数で704人、阿賀野川中上流域の住民は174人)の多くは、熊本・鹿児島で申請すれば認定されていないかもしれません。ほとんどが比較的軽い慢性中毒患者(*5)です。*5);昭電鹿瀬工場の操業中止後に発症したとして、当初、遅発性患者と呼ばれました。メチル水銀中毒の閾値を超える曝露によって直ぐには発症せず、閾値超えから数年後(追加のメチル水銀曝露が無い⇔操業中止によって工場廃液由来のメチル水銀の曝露は有り得ない)に遅発的に発症するという型破りの中毒様式です。本来の中毒学でいう中毒とは閾値を超える曝露量の反応であり、閾値を超えた曝露によって反応(中毒)しないことを本来の中毒学では説明できません。

新潟におけるネコの狂死の報告は1965年5月で途切れており、その後ネコ狂死があったという統計データはありません(*6)。八代海においては長島・獅子島・御所浦島で1959年2~5月にネコ狂死が集中しています(*7)。出水での報告は1959年8月です。工場廃液はそれまで水俣湾内百間港に排出していましたが、1958年9月から1959年10月までは水俣川河口の八幡プールから直接八代海に流出しました。八幡プールから流出した工場廃液由来のメチル水銀は水俣川の流れによって水俣地先の対岸の島々へ運ばれたことで、島々に至る漁場のメチル水銀レベルは1958年9月以前より上昇したでしょう。しかし、1958年9月から1959年1月 までに水俣地先の対岸の島々のみならず八代海沿岸でネコ狂死は見られていません。1959年2月4月の水俣地先の対岸の島々でのネコ狂死が工場廃液由来のメチル水銀だけを原因としていると一般的に考えられていますが科学的に検証されていません。ただし、1959年5月のそれらの島々でのネコ狂死の発生に、これらの島々の漁場がカタクチイワシの漁期であったことと関係しており、水俣地先から回遊してきたカタクチイワシのメチル水銀の大部分が八幡プールから流出した工場廃液由来であるといえるでしょう。ところで、8月水銀系農薬の散布期であり、出水地区のネコの狂死に工場廃液のメチル水銀に水銀系農薬由来のメチル水銀が加わっている可能性が問われます。新潟と熊本では河川(阿賀野川)と内湾・内海(水俣湾・八代海)という地理条件は異なっていますが、メチル水銀中毒は魚の摂取を通じて発生しているので、ヒトでの発症は漁獲規制によって収束に向かうでしょうが、それまで魚を食べていたネコが突然、食習慣を変えてネズミだけを食べるようになるとは考えられません。にもかかわらず、熊本でも新潟(とくに新潟)でもネコ狂死が途絶えています。両地域の魚のメチル水銀が中毒レベル以下に低下したのでしょう。新潟で発見された26人急性・亜急性患者発生メチル水銀短期濃厚汚染(すなわち、昭電鹿瀬の工場廃液に含まれたメチル水銀によって食物連鎖網の低次から高次捕食者へと順次、生態系の異常が発現した長期連続汚染ではない)と考えるのが妥当でしょう。(*6);新潟・阿賀野川下流域においてネコ狂死の発生は1965年5月で止まりました。また、急性・亜急性の水俣病患者の発生は同年7月で止まっています。したがって、少なくとも1966年以降の阿賀野川下流域では、急性・亜急性の水俣病患者が発生するメチル水銀汚染レベルではなかったことの説明・状況証拠と言えそうです。(*7);長島・獅子島・御所浦島でネコ狂死が観察されたということは、当然、急性・亜急性の水俣病患者が複数発生していた可能性が極めて高いと思われますが、報告例はありません。長島・獅子島・御所浦島の住民が、水俣病は「水俣の病気・公害病」という認識だったとすれば、医療の過疎地でもあったそれらの島々では「水俣病患者」の発見に至らず、報告されなかったに過ぎないと思われます。

新潟の慢性患者の発症のピークは1970年です。何と、熊本・鹿児島の慢性患者発生のピークも1969・70年です【因果関係のクライテリアにおける関連の特異性が一致している(発生地域が異なっているにもかかわらず、慢性水俣病発生のピーク時において両者が一致している。ただし、新潟・昭電鹿瀬工場は1965年1月10日に操業中止し、熊本・チッソ水俣工場は1966年6月に排水循環方式が完成し、1968年5月18日に操業中止した。両者の工場廃液の排水が止まった時期が異なっている) → 慢性水俣病患者の発生要因が同じである可能性が問われるが、両者の工場廃液の排水時期の時系列が異なっていることから、発生要因を唯一工場廃液と特定することは無理である】。ネコ狂死は熊本・新潟共に1970年ごろの報告はありません。ヒトとは異なりネコの慢性発症は知られていません。ネコ狂死の発生は急性・亜急性水俣病患者発生の前触れ・信号と言えそうです。新潟では、阿賀野川中・上流域でのネコ狂死は報告されていません。昭電鹿瀬からの工場廃液のメチル水銀が急性・亜急性中毒を発現させるほど高濃度であったと説明できません。ネコ狂死を伴い1964年8月~翌年7月までに急性・亜急性発症した阿賀野川下流域の26人の水俣病患者のメチル水銀汚染源が、中・上流域の慢性発症患者のそれらと同一とは考えられません。昭和電工は1965年1月、チッソは1968年5月に無機水銀を触媒としたアセチレンからのアセトアルデヒド生産を中止しています。水俣も新潟もアセトアルデヒド生産工場の廃液をメチル水銀汚染源とする公害、というのが世界標準の認識(世間の常識)です。しかし、1953~1960年とされている水俣での急性・亜急性発症も(水俣病,pp185,青林舎,1979)、それ以降の慢性発症の大部分もチッソのアセトアルデヒド生産中でした。しかし、新潟では、昭電鹿瀬の操業中に10人、中止後半年間に16人が急性・亜急性発症しましたが、全ての慢性水俣病患者は昭電鹿瀬の操業中止後に発症しました。水俣と新潟の一致点はアセトアルデヒド工場が在ったということだけのようです。両者を同じ公害で括れるのでしょうか。誰も疑問に思わなかった・思っていないという歴史が続いています。

2015年1月17日(既投稿)-再掲・訂正&「加筆・追記」
2017年10月9日再投稿(加筆・訂正あり)

熊本水俣病患者の発生が水俣湾沿岸に止まらず、広く八代海(不知火海)沿岸に拡がったのは、1958年9月から翌1959年10月までの14カ月間、工場廃液の排水先が百間港(水俣湾内)から八幡(ハチマン)プール(水俣川沿いの廃水溜め沈殿池・上澄み廃液は八代海に溢れ・漏れ出た)に移ったことが原因だとされている。しかし、そのことが科学的に証明されているわけではない。熊本水俣病におけるメチル水銀発生源がアセトアルデヒド生産に由来する工場廃液だけであるとの意識の下では、それらが直接的に八代海へ流出したことによって、メチル水銀の濃厚汚染が広く八代海に拡がったという結論に行き着くだろう。しかし、日本政府は水俣病特措法で水俣病の発生地域は八代海沿岸全域ではなく、その一部に止まる(*1)と規定している。(*1);日本政府は工場廃液由来のメチル水銀の拡散によるその影響(水俣病の発症)が限定的であると主張していることになる。また、政府が主張する「水俣病」は「水俣病と認定される条件を満たす症状を有するメチル水銀中毒症」であり、単にメチル水銀中毒症状を有していても「水俣病」とは認めていない。科学ではなく主張に過ぎない。

続きを読む

工場廃液が直接的に八代海に排出されはじめると、水俣湾外八代海沿岸住民から急性・亜急性水俣病(急性・亜急性)患者が 14人(13人の成人と 1人の小児)発生した。13人の成人のうち11人が漁師であり、1人の小児は漁師(11人中の 1人)の息子であり、全員が男性であった(*2)。漁師に偏りさらに女性に発生しなかった水俣湾外住民からの急性・亜急性患者の特徴は、魚食量が極めて多かったことにあると思われる。ただし、魚食習慣が一朝一夕に変化しないことを考慮すれば、彼らの魚食量が急増したのではなく、摂食した魚介類のメチル水銀濃度が排水先変更以前と比べると、相当に上昇したと考えられる。水俣湾外住民からの急性・亜急性患者は、工場廃液が八幡プールから直接八代海に排出されはじめた1958年8月から1959年2月までの6か月には発生しなかったが、19593八幡プールのある水俣市八幡地区(水俣湾外)住民の】から、八幡プールからの排出を止めた1959年10月翌月11月までの9か月間に発生している。因果関係の評価における時間の先行性(原因が結果に先行している)があることから、工場廃液の八幡プールへの排水先変更が関係していた(起因=”きっかけ”にはなった)可能性は十分高い。(*2);工場廃液が八幡プールから排出・流出され始めたのは1958年8月である。この排水先変更以前には、水俣湾沿岸湾内)住民から 65人【男 39人(内 10歳以下の男児 10人)・女 26人(内 10歳以下の女児 10人)】の急性・亜急性水俣病急性・亜急性)患者が発生していたが、水俣湾外の八代海沿岸住民から急性・亜急性患者は発生していない。なお、水俣湾沿岸および水俣湾外の八代海沿岸のそれぞれの住民からの急性・亜急性患者の性比(男/女)に有意差があり(39/26 vs 14/0, Fisher's exact test, p=0.003, 成人に限定した場合 29/16 vs 13/0, Fisher's exact test, p=0.012】、メチル水銀曝露条件(魚食量&摂食魚類のメチル水銀濃度)が異なることが示唆される。一方、胎児性水俣病患者(胎児性患者)は 1955年9月・出水米ノ津、1957年4月・芦北田浦、および1957年8月・出水米ノ津の水俣湾外の八代海沿岸で3例、単発的に生まれている。ただし、この時期、水俣湾内沿岸では多数(18人)の胎児性患者が連続的に生まれている。ところで、胎児性患者の母は水俣病の症状が見られるが軽症である(原田正純,日本ハンセン病学会誌,78,p55-60,2009)。胎児性患者は当初、母親がそろってほぼ無症状であるとして、水俣病ではなく脳性マヒと診断されていた(水俣病,pp85,青林舎,1979)。ところで、胎児性患者の母のメチル水銀曝露は急性・亜急性水俣病レベルであったが、胎盤を通して胎児にメチル水銀を移送したことで母の症は軽症化したと説明されたこともある。この説明はメチル水銀中毒の時間分布を無視しているようである。母が急性・亜急性水俣病を発症するメチル水銀曝露レベルであれば、受精卵が着床しただろうか。また、着床したとしても胎児が死産せず満足に成長しただろうか。どちらも考え難い。すなわち、胎児性患者の母の魚食量は普段から少なく、無症状・軽症状のメチル水銀曝露レベルだったはずである。それ故、彼女ら(母)の受精卵は着床し、流産・死産は避けられたのだろう。ただし、母の曝露したメチル水銀の一部は胎盤を通過するので、胎児のメチル水銀曝露レベルは、母の2倍(臍帯血MeHg濃度/母体血MeHg濃度)にも達し、脳神経系の成長・発達段階におけるメチル水銀曝露によって重篤な症状を潜在したまま出生したと考えられる。まさに、胎児性患者の誕生である。

一方、1959年2月から7月に亘って八幡プール地先では、大量の魚斃死が観測されている。しかし、それまで工場廃液が百間港から排水されていた期間(アセトアルデヒド生産開始の1932年以来1958年8月まで)、このような大量の魚斃死は水俣湾外ではもちろん水俣湾内でも発生していない。1959年11月から翌1960年1月までの工場廃液は八幡プールに溜めたまま流出させなかったとされているが、1960年1月末からは、排水先再び百間港へと変更された。1959年11月以降、直接的八代海への工場廃液の排出を止めてからはもちろん、再び百間港からの排水に至ってからも水俣湾内外で大量の魚斃死はみられていない。1958年 8月までの水俣湾内の魚類の異常行動としてカタクチイワシ魚群の飛び跳ねが観察されている。湾内における工場廃液由来のメチル水銀の一部は水俣湾内の生態系(海水・底土・動植物)に取り込まれただろう。それでも大部分のメチル水銀が湾内の海水中メチル水銀レベルを魚類の異常行動を引き起こすほど高めたが、魚の大量斃死を発生させるレベルに達しなかったのだろう。一方、百間港から排水された工場廃液由来のメチル水銀は水俣湾内を経由して湾外に拡散しただろうが、水俣湾外の八代海ではカタクチイワシ群の飛び跳ねさえも観察されていない(*3)。水俣湾の海水量を1とすれば八代海のそれらは 400である。したがって、単純計算で海水中メチル水銀レベルは水俣湾が1ならば八代海は 1/400である。工場廃液由来のメチル水銀が水俣湾外の八代海の大量の海水で希釈され、その海水中メチル水銀は低レベルであったはずである。したがって、水俣湾沿岸で急性・亜急性患者が多発していた時期に水俣湾内で大量の魚斃死が発生しなかったにもかかわらず、工場廃液が直接水俣湾外に流出しただけで、水俣湾外の八代海で大量の魚斃死が発生したことの説明は難しい。工場廃液由来のメチル水銀に加え、何らかのメチル水銀の上積みがあったことが予想できる。(*3);細川新日窒水俣工場附属病院長談話より → 外洋(筆者の解釈では多分水俣湾外の八代海と思われる)で捕獲したカタクチイワシを捕獲直後、ネコに餌として与えてもネコ水俣病を発症しなかったが、一か月にわたって水俣湾内の生け簀で泳がせた後のそれらでネコを飼育すると発症した。;筆者の加筆........湾内の生け簀で泳がせたことでネコ狂死(メチル水銀中毒死)を発生させたカタクチイワシ群の生態系の異常(飛び跳ねなど;とくにメチル水銀レベルが 1/400 の外洋から 1 の湾内の生け簀に移した直後・際の......)については述べられていない........。

ところで、1959年8月~10月の間、八幡プールから工場廃液に含まれたメチル水銀が流出し続けていたにもかかわらず、八幡プール地先(報告は水俣地先・津奈木地先である)で魚斃死は発生していない。しかし、1959年8月には八幡プールから北東に15㎞以上離れた芦北地先、および北北西に11㎞程離れた御所浦島地先大量魚斃死が発生している。また、9月には引き続き芦北地先および芦北地先よりさらに 10km(八幡プールから北東に25㎞以上離れた田浦以南海域(芦北地先以北)で大量魚斃死が発生している。さらに 10月には引き続き田浦以南海域で発生している。魚斃死量は 2~7月水俣地先・津奈木地先では 6か月間合計 2,132kgであったが、9・10月田浦以南海域では 2か月間でそれらの 6.5倍 の13,846kg9月だけで 8,461kg61%)であった。魚の大量斃死が、八幡プール地先で 8月以降に発生しなかったことに加え、八幡プールから流出した工場廃液由来のメチル水銀だけで発生したとされる 6か月間( 2~7月)の八幡プール地先の 6.5倍量が 2か月間9・10月)の田浦以南海域で発生したことを工場廃液由来のメチル水銀だけが原因だと説明できない。7月下旬から 8月下旬の水田に大量散布された稲イモチ病対策の酢酸フェニル水銀系農薬(セレサン石灰)由来のメチル水銀が河川を経由して海域に流れ出たものが加わっていた可能性が極めて高いと考えている。

1959年2~5月には八幡プールから北北西に11km程離れた御所浦島(熊本県)および北西に14km程離れた獅子島(鹿児島県)でネコ狂死(ネコ踊り病とも呼ばれたネコのメチル水銀中毒の特異的な症状を示している)が連続発生している。工場廃液のメチル水銀が八幡プールの側を流れる水俣川の流れに乗って御所浦島・獅子島方面へ運ばれたと予想される。また、御所浦島・獅子島方面はカタクチイワシの群れの回遊ルートの一つでもあり、ネコ狂死が連続したことを説明することが出来る。

多くの水俣病研究があるが、狂死数/飼育;観察ネコ数(ネコ狂死比)などの動物の生態系の異常を扱った調査はほとんどない。八代海沿岸でのネコ狂死比は、水俣湾沿岸74/121が知られているのみで、水俣湾沿岸以外では調べられていない。それでも、水俣湾から遠く離れた(約38km)八代市において、ネコ狂死(分子)は観察されていない。したがって、八代市ネコ狂死比は、(分母は調べられていないが)間違いなくゼロである。魚介類のメチル水銀レベルが食物連鎖を経由した生物濃縮によって水俣湾外の八代海の隅々までも水俣湾内と同等になり、八代海沿岸全域から急性・亜急性の水俣病患者が発生したという主張は、八代市のネコ狂死比ゼロという事実と相反している。だからといって水俣病特措法で水俣病発生地域は八代海沿岸の一部にかぎられるという政府の主張の方が正しいということではない。政府(特措法)は水俣病認定患者発生地域と記述すべきところを水俣病発生地域と言い換えており、科学的見地からは 0 or 1 の定性的判断に止まっている。本来ならば、カキやムール貝などの付着性二枚貝のメチル水銀濃度の時間・地理分布を明らかし、人々のメチル水銀曝露量(摂食魚介類の平均的メチル水銀濃度×魚食量)の推定値から定量的に軽症から重症の水俣病発生の可能性から発生地域を示すべきである。

本来の疫学(記述疫学)では、メチル水銀曝露における中毒ネコの時間・地理分布を描く。しかし、何時、中毒が発生したかとネコに聞いても答えてくれない。したがって、中毒発生の時間分布を得ることは出来ない。それでも、急性中毒死であるネコ狂死は、人々の目に曝されるだろうから、ある程度の正確さで、その時間・地理分布が推定できる。さらに、ネコ狂死の地理分布は高濃度メチル水銀曝露の地理分布と一致することが期待される。実際、ジョン・スノウはロンドン・ブロードストリートのコレラ流行の原因が公共給水ポンプ(高濃度曝露源)であることをコレラ患者ではなくコレラ死者の地理分布を描くことから特定している(ロベルト・コッホがコレラ菌を発見する 30数年前に病因を特定したことから疫学の原点と言われている)。ただし、熊本の場合、ネコの主たる漁労が人々の漁獲物を失敬することであり、その上、その漁獲物がカタクチイワシのような回遊魚であれば、それらが漁獲された場所をメチル水銀発生源地とすることは出来ない。回遊コースの何処かが発生地ではある。1957年2~4月排水先変更前)に水俣湾外の津奈木合串で多数のネコ狂死が発生した。水俣湾の恋路島から直線距離で13km北東に離れた場所(合串)でネコ狂死が多数発生したのであれば、既に水俣湾外の八代海が濃厚なメチル水銀レベルであったことになる。しかし、その報告を受けた水俣保健所長が現地調査したところ、水俣湾近辺での漁獲物密漁による発症だったということが判明している(水俣病,pp832-833,青林舎,1979)。八幡プールへの排水先変更前メチル水銀濃厚汚染域水俣湾内に限られたこと、同時に、水俣湾外メチル水銀レベル水俣湾内より相当に低かったことを裏付けている(再び*3を参照)。すなわち、水俣湾内回遊しメチル水銀の生物濃縮を果たしたカタクチイワシの魚群の一部が、捕獲されず八代海遡上しさらに生物濃縮を果たしても、それらのメチル水銀レベルが、湾内捕獲されたカタクチイワシのそれらより十分に低かったこと(*4が示唆される。事実、排水口変更前水俣湾外八代海沿岸ネコ狂死見られていないことがそれを説明している。(*4);カタクチイワシのメチル水銀の生物濃縮の主体が鰓・呼吸経由であって経口/経腸・食物連鎖経由でないことが期待される。

一方、新潟における急性・亜急性患者宅のネコ狂死比(狂死ネコ数/飼育ネコ数)の地理分布は、左岸側の下山(河口から1.5~2 km)で5/19,津島屋(2~4km)で16/28,一日市(4~5km)で7/21,および上江口(5~7km)で1/13,右岸側の新崎・胡桃山(河口から5~6km)で5/10,および高森・森下(6~8km)で5/12, また、横越(左岸10km)・京ヶ瀬(右岸13km)で0/13(この地区に急性・亜急性患者は居ないので、ネコ狂死比を観察する対照地としている)である。新潟の26人の急性・亜急性患者の発生地は河口から最も離れた森下地区(右岸河口から8km)であり、森下地区より上流域での急性・亜急性の発症者が居なかったことの状況証拠として横越・京ヶ瀬のネコ狂死比ゼロを挙げることができる。また、ネコ狂死比の最高は津島屋である。しかし、ネコ狂死比は、下山(5/19)および一日市(7/21)と津島屋(16/28)間に有意差がない(p=0.185 and p=0.313)ことから、統計学上、津島屋にメチル水銀発生源が在ったと特定出来ない。しかし、ネコ狂死は津島屋で初発している。時間分布からは初発地のメチル水銀濃度が最高であった可能性は高いはずである。それ故、津島屋のネコ狂死比が最も高いという統計学上の有意差が有って然るべきだとの意が強くなる。観察ネコ数が少ないことを考慮した統計を考え(工夫し)、観察ネコ数における狂死数非狂死数との分布の比較を試した。津島屋(狂死数16:非狂死数12)と下山(5:14)、および一日市(7:14)の分布の差は、前者(カイ二乗検定;p=0.037)は有意であるが、後者(p=0.098)は傾向に止まった。ネコ狂死比でなく、狂死数と非狂死数との分布を用いた統計結果が使えそうであるが、やはり曖昧である。

しかし、ネコ狂死の時間分布の情報(津島屋で初発)が有るので、とりあえずは津島屋にメチル水銀発生源があったと言っても良いかもしれない........。観察開始時を津島屋のネコ狂死の初発時として観察ネコの狂死の発生数と発生時間経過生存分析によって比較できる。実際の計算はお手上げだが、統計ソフトのお陰で、データを入れるだけで結果が得られる。Kaplan-Meier法で累積生存曲線の地区別比較を Loglank検定した結果である。津島屋と下山では、津島屋で僅かに早く狂死が進行し、その率も高いが有意ではない(カイ二乗値=2.903,p=0.088,ただし、狂死数と非狂死数との分布有意差がある;p=0.037)。津島屋と一日市では、津島屋で有意に早く狂死が進行し、その率も高い(カイ二乗値=4.007,p=0.045)。下山地区に近い津島屋地区に最も濃厚なメチル水銀発生源が在ったことが期待される。急性水俣病初発患者が、1964年8月に発症した下山(阿賀野川左岸・河口から 2km → 下山地区でも津島屋隣接の下山)地区住人であることからもメチル水銀発生源地がほぼ特定出来ると考えられる。通常、疫学では初発地が原因の所在地である。しかし、この統計学では初発地が原因の所在地であると同定出来なかった。翻ってみれば、原因の所在地が移動したと捉えることが出来る。正に、泰平橋(河口から 5km)の左岸河川敷に野積みした水銀系農薬の紙袋群が7月上旬・梅雨末期の大雨・洪水で河口域に流失し、その後、河川水によって連続的に日本海に流れ出たことが予想できる。これらのデータは、阿賀野川河口から 65km上流の昭和電工鹿瀬アセトアルデヒド生産工場からの工場廃液のメチル水銀が阿賀野川河口域のネコ狂死の発生源であることの説明になってないのは明らかである。

ところで、阿賀野川の流れのほんの一部は左岸河口から2kmの通船川(*5)を抜けて信濃川に入る。通船川入口から対岸方向200m離れた左岸側阿賀野川に長径270m・短径100mの紡錘形の中州がある。その辺りの河川底に多くの(泰平橋下左岸河川敷に野積みした水銀系農薬の洪水による)流失農薬が止まり、環境のメチル水銀濃度を高めていたと考えている。この中州は、正に下山地区に近い津島屋地区という位置に在る。阿賀野川の川魚漁に関しては、居住地に近い所が漁場のようである。それに、患者宅の飼いネコが対象なので、患者が食べた魚と同じものをネコに与えていたとして良いだろう。それ故、阿賀野川下流域の比較的狭い地域におけるネコ狂死の時間・地理分布は、正しく、メチル水銀発生源地を示している。(*5)多くはWikipediaから引用・編集;1730年新発田藩は、信濃川に合流して日本海に注ぐため、洪水を繰り返していた阿賀野川の河道を直接、日本海に流出させるための捷水路(ショウスイロ)を開削した。しかし、翌年春の融雪洪水で決壊し、むしろ大々的に現在のように阿賀野川河口が日本海に開けたという。決壊によって出来た池は、現在、貯木場として機能している。信濃川に通じる手前1km辺りは焼島潟と呼ばれ、通船川はそこまでであり、1967年に設置した山の下閘門(船のエレベーター)排水機場を抜け新栗ノ木川と合流し、新川として信濃川と繋がっている。通船川と信濃川との水位差は、2m前者が高いそうである。現在、津島屋にも閘門排水機が設置されているが、設置年は検索できなかった。1964年6月16日の新潟地震の津波によって、製紙工場(パルプ生産)のために通船川近辺に貯木されていた85%は日本海に流失したようである。しかし、焼島潟からの流失は65%に止まっている(岩淵洋子ら,海岸工学論文集,53,p1326-1330,2006))。焼島潟付近の流れが新栗ノ木川の流れに遮られているとの情報ではと思われる。

1966年9月19日に焼島潟で採集した泥土の総水銀濃度は19.0±6.9ppm(5.6-37.4ppm,n=27)である。1966年10月14日に上記の通船川入口から200mの中州で採集した泥土の総水銀濃度は0.44ppmと報告されている。これらのデータから、1964年7月上旬に河口から 5kmに掛かる泰平橋下の阿賀野川左岸河川敷から流失した紙袋入りの水銀系農薬の多くが河口から 2kmの中州辺りに到達・堆積しただろう。そして、水銀測定のために河底土を採集するまでの期間(2年3か月)に阿賀野川の流れによって、それらの大部分は日本海に流失したのだろう、中州の泥土に一旦堆積した水銀のほとんどが流失して1ppmも残らなかったようである。しかし、中州の泥土に堆積した水銀の一部が、通船川を通って焼島潟に停留・残留したのであれば、焼島潟の泥土に水銀が20ppm近く残留・堆積したことを説明できるのではないだろうか。昭電(横国大・北川徹三)が主張した塩水楔説(*6)では説明できないネコ狂死の時間・地理分布および泥土の総水銀地理分布だと考えられる。(*6);1964年6月16日の新潟地震で発生した津波によって新潟港埠頭倉庫に保管中の水銀系農薬が信濃川河口から日本海に流出し、阿賀野川河口沖に漂流した。ところが、阿賀野川における夏季の渇水期に、満ち潮とともに漂流していた水銀系農薬が海水で阿賀野川河口に運ばれ、阿賀野川の河川水を押し上げながら河口から 8km近くまで運ばれたとの主張(説)である;比重の大きい海水に含まれた水銀系農薬が、比重の小さい河川水に流されることなく、河川水に楔を打つような状態で河口から 8km近くまで運ばれ、阿賀野川下流域をメチル水銀で汚染したと主張し、工場廃液説を真っ向から否定した。

ネコ狂死(急性中毒)はメチル水銀高濃度曝露の指標だろう。 ネコの慢性メチル水銀中毒の症状が分かれば、より低いレベルのメチル水銀汚染の指標に出来るはずである。しかし、ネコのメチル水銀中毒の結末は致死である。水俣病の発生が公表された1956年5月1日以来、熊本大の研究者の多くは、ネコ狂死が水俣病の原因を解く鍵と考えたようである。1958年9月、熊本大武内は、水俣病症状が有機水銀中毒例に一致すると発表した。有機水銀説は駅弁大学・ヘッポコ大学の戯言と揶揄され続けた。しかし、熊本大喜田村は早速、狂死ネコの臓器中総水銀の測定を試みている。

喜田村の専門は公衆衛生学であり、狂死ネコだけでなく、各地からネコを集め、様々な比較試料としている。それなりの意図を持って臓器中総水銀濃度を比べたということである。この臓器中総水銀測定実験で特筆すべきは、自然発症群と実験発症群が揃えられていることであるが、残念な事に、ネコの性・体重(年齢)・臓器重量などの記述がないことから、ネコにおいてメチル水銀が食物連鎖を経由して生物濃縮されることに関わる幾つかの要因を統計学的に調整出来ないデータになっている。したがって、以下のネコの臓器中総水銀濃度の統計学的な比較・検討は単なる数値の大小に止まるものである。

腎臓中総水銀濃度は、自然発症ネコ3匹で算術平均±標準偏差; 20.8±10.9ppm,幾何平均・95%信頼区間 19.1ppm・5.4-66.9ppm、実験発症ネコ4匹で 20.1 ± 10.8ppm,18.4ppm・8.9-38.2ppm だったが、両者の差はない(p=0.936・p=0.926)。自然発症ネコ(脳,9.2±1.6ppm,9.2ppm・1.8-45.6ppm,n=2;肝臓 62.2 ± 21.6ppm,42.0ppm・42.0-83.9ppm,n=6)・実験発症ネコ(脳,12.8 ± 5.1ppm,12.0ppm・7.3-19.6ppm,n=5;肝臓 74.3 ± 32.0ppm,69.5ppm・52.4-92.1ppm,n=9)の各臓器中総水銀濃度もほぼ同じである。もちろん有意差はない。それに肝臓中総水銀濃度に対する脳中総水銀濃度は自然発症ネコで14.8%、実験発症ネコで17.2%である。測定例数が少ない(とくに自然発症ネコの脳は2検体)ので統計学的な差は検討しにくいが、自然発症群と実験発症群の差はないと考えて良いだろう。

各臓器とは;肝臓・腎臓・脳・毛などである。メチル水銀曝露源(魚など)を摂取すれば、即、脳神経系に取り込まれることはないはずである。いかにも、摂取したメチル水銀がそのまま毒物として作用するのであれば、魚を摂取する度に、その量に応じて脳神経系はダメージを受けるはずである。そうであるなら、海洋に囲まれて生活する人々(海洋人)は年齢とともにメチル水銀中毒症になり、その症状も進むはずである。我が国の偉人達が、一切、魚食をしなかったというなら、前記したことが事実である可能性は高いだろう。しかし、海洋人の魚不食が事実でないことに疑う余地はない。

メチル水銀中毒に引き金があることが期待される。経口曝露のメチル水銀は、まず肝臓に運ばれる。肝臓中の総水銀濃度は、発症群(平均値;69ppm,最小値-最大値;37-146ppm,検体数;n=15),芦北健康群(50ppm,5-301ppm,n=18),天草健康群(26ppm,9-58ppm,n=7),熊本対照群(2.6ppm,0.6-6.6ppm,n=5),大分対照群(1.7ppm,0.7-3.7ppm,n=8)である。平均値は環境中(摂食魚)のメチル水銀レベルを表していると考えられる。発症群>芦北健康群>天草健康群>熊本対照群>大分対照群という肝臓中総水銀濃度の平均値であり、そのまま環境中メチル水銀レベル順として良いだろう。発症群と芦北健康群との差は有意ではないが(p=0.354」、天草健康群との差は有意である(p=0.001)。発症群の最小値(37ppm)を発症の閾値(threshold)と仮定する。芦北健康群から37ppm未満の14検体を除く、75,85,172,および301ppmの4検体が閾値超である。天草健康群の37ppm超(閾値超)は58ppm(最大値)の1検体である。発症群15検体では、11検体で37-68ppm、4検体で75ppm以上の、78,101,106,および146ppmである。芦北健康群の172ppmおよび301ppmの2検体の存在は、経口曝露量だけがネコ狂死の必要十分条件でないことを物語っている。メチル水銀曝露量は摂食した魚介類のメチル水銀濃度×摂食量で計算される。ネコにとって魚介類の摂食が自由であれば日常的摂食量はそれほど変動しないだろう。発症群と芦北健康群の魚介類摂食量に差が無かったとすれば、魚介類のメチル水銀レベルにおいて発症群が摂食したものが芦北健康群のそれらより断然高かったと予想できる。発症群では魚介類のメチル水銀レベルが高すぎて肝臓で処理出来ず、メチル水銀が脳に取り込まれ発症した。一方、芦北健康群の摂食した魚介類のメチル水銀は、肝臓が処理できるレベルであり、肝臓に蓄積し、他臓器に運ばれるメチル水銀は少量だったのだろう。とくに脳における脳血管関門(Blood Brain Barrier)で通過を止められる血液中メチル水銀レベルであったことで健康レベルに留まったと考えられる。

毛(髪)は、メチル水銀の排泄器官のひとつである。また、そのメチル水銀濃度は肝臓のそれらと同様に、曝露量の指標とされている。その総水銀濃度は、発症群(46ppm,22-70ppm,n=4),芦北健康群(55ppm,9-134ppm,n=11),天草健康群(77ppm,18-128ppm,n=7),熊本対照群(8.4ppm,0.2-29ppm,n=5),大分対照群(2.3ppm,0.5-3.5ppm,n=5)である。平均値は天草健康群>芦北健康群>発症群>熊本対照群>大分対照群である。発症群の最大値(70ppm)を超える検体が芦北健康群に4例(80,87,89,および134ppm)、および天草健康群に3例(117,118,および128ppm)を確認できる。発症群の検体数が4例と少ないので統計的な差を検討しない。しかし、二つの地域の健康群ともに平均値が発症群より高い上に、発症群のそれらの最大値を超える濃度の検体が複数例ある。したがって、肝臓中および毛髪中の水銀濃度が曝露量の指標ではあっても、中毒の閾値の指標にはなりそうもない。

次に腎臓と脳の総水銀濃度を示す。腎臓の水銀の大部分は無機水銀である。腎機能が正常であれば、肝臓から送られた血液中の血球メチル水銀および血漿中の蛋白質結合水銀・メチル水銀は濾過の対象でないので、そのまま血中に残る(*7)。また、無機水銀イオンの形で濾過された水銀(の大部分)が尿として排泄される。したがって、尿として排泄できず、蓄積した無機水銀が腎臓の水銀と考えている。腎臓の総水銀濃度は、発症群(20ppm,12-36ppm,n=7),芦北健康群(3.3ppm,0.2-6.8ppm,n=18),天草健康群(2.5ppm,0.9-4.0ppm,n=7),熊本対照群(0.2ppm,0.1-0.3ppm,n=3),大分対照群(0.5ppm,0.1-0.8ppm,n=7)である。二つの地域の健康群の最大値(6.8ppm,および4.0ppm)は、発症群の最小値(12ppm)に届いていない。腎臓の総水銀濃度の6.8ppm超~12ppmがネコ狂死の閾値と考えられる。(*7);正常な腎機能下で調節されている血中メチル水銀は脳血管関門が機能し、関門を容易に通過できないのではないかと考えられる。そして、脳血管関門を通過しなかったメチル水銀は毛の水銀として排泄される可能性があると考えた。メチル水銀曝露量が短時間に多量の場合、腎機能が正常に働かないことで、尿(無機Hg)および毛(メチル水銀)からの排泄が進まないのだろうか(*8)。

脳の総水銀濃度は、発症群(12ppm,8-19ppm,n=7),芦北健康群(2.1ppm,0.7-4.1ppm,n=15),天草健康群(1.7ppm,0.13-3.6ppm,n=6),熊本対照群(0.06ppm,0.02-0.12ppm,n=3),大分対照群(0.09ppm,0.05-0.13ppm,n=5)である。腎臓総水銀と同様に脳総水銀でも二つの地域の健康群の(4.1ppm,および3.6ppm)は、発症群の最小値(8ppm)に届いていない。脳の総水銀濃度の4.1ppm超~8ppmがネコ狂死の閾値と考えられる。(*8);腎機能が低下すると、血中の無機水銀イオンを濾過・排出できない。血中の無機水銀イオン(*9)が脳血管関門の機能を低下させることで、脳中にメチル水銀が侵入するようになり、メチル水銀中毒が発現すると考える。(*9);メチル水銀関門の機能低下は無機水銀イオンに限らず、重金属(無機イオンとして・水俣湾ではFeイオン/Mnイオンが高濃度だったと考えられる)との共存でも起こるかもしれない。

このような関門(barrier)の考え方は自説である。白木の妊娠ネズミへの塩化エチル水銀と塩化第二水銀のトレーサー実験(水俣病,pp655-657,青林舎,1979)がネガティブヒントである。血液胎盤関門を通過できない無機の203Hgは胎盤で完全に止まっている。一方、世間(水俣病研究者)の常識ではアルキル水銀(メチル水銀やエチル水銀)は容易に胎盤を通過し(血液胎盤関門を抜け)、胎児に侵入するという。しかし、白木のラジオオートグラムは、塩化エチル水銀の203Hgのほとんどは胎盤に停留し、ほんの一部が胎児に浸入していることを示している。妊婦時の母の血液は、肝臓⇒胎盤⇒胎児の流れであり、通常(非妊娠時)は肝臓⇒腎臓⇒全身である。肝臓では一部のメチル水銀を(腎臓での排出処理のため)無機化する。そんな肝臓由来の無機化された無機水銀イオンが血液胎盤関門の機能を低下させ、エチル水銀の203Hgの一部が胎児に浸入したという考えである。世間が言うように、摂取したメチル水銀が容易く脳に侵入するのであれば、魚食量の多い人々は全員、魚介類由来のメチル水銀に中毒するはずである。しかし、実際には虚血性心疾患の低リスク要因として魚介類の摂食が推奨されているほどであり、通常の魚食にメチル水銀中毒のリスクがあるとは考えられていない。ただし、妊婦の魚介類の摂食については胎児の成長・発達に影響しないように魚種と魚食量を考慮しようという注意喚起が為されている。

新潟の(実験)狂死ネコの肝臓・腎臓・脳の総水銀濃度はそれぞれ10074,および1.7ppmである。報告はこの1例に限られている。発症ネコにもかかわらず、の1.7ppmは、熊本の推定閾値 4.1~8ppmに遠く及ばない。一方で腎臓の74ppmは、熊本の推定閾値6.8~12ppmを大幅に超えている。この差異が、海産魚と川魚の無機金属の代謝の差から生じたのではないかとも考えられるが、1例の報告では何の結論も得られない。新潟水俣病のメチル水銀発生源は、熊本水俣病という経験が有ったことで工場廃液であって「公害」であることが速やかに明らかになったとされている。ところが、新潟水俣病関連の調査・研究でネコ狂死試料の臓器中水銀濃度を測定した例がほとんど無い。阿賀野川中流域で死んだネコを掘り起こしてまで骨や毛の総水銀濃度を測定している。そうでもしなければネコ狂死例が得られなかったということであり、1965年6月からの新潟水俣病に関する調査・研究によって、同年5月の一日市地区でのネコ狂死が最後の例であることが分かっている。上記の1例の実験狂死ネコの脳の総水銀濃度 1.7ppmはこのネコは狂死状態でなかったことが予想出来る。したがって、実験ネコに供した阿賀野川下流域の川魚のメチル水銀濃度は中毒レベルでなかったことが示唆される。しかし、川魚の無機水銀濃度は相当に高く、腎の総水銀濃度が 74ppmまでも上昇したことを説明している。泰平橋左岸下河川敷に野積みした水銀系農薬紙袋が1964年7月上旬の梅雨末期の洪水で河口域に流出したものがメチル水銀発生源であるとの説明になっている。65km上流の工場廃液は 1965年1月 10日以降流れていない。1965年6月以降の阿賀野川下流域の川魚の低いメチル水銀濃度の説明にはなるが、高い無機水銀濃度を説明することは出来ない。阿賀野川下流域の急性・亜急性水俣病患者のメチル水銀発生源を科学的に工場廃液であると説明することは出来ない。

ところで、熊本の胎児性患者、および臍帯中メチル水銀濃度における出水・水俣・芦北の三地域でそれぞれ地理分布が異なっている(*10。臍帯は発生学上は受精卵(胎児)の一部であるが、組織学上では胎盤の一部である。したがって、胎盤(臍帯)メチル水銀濃度を一方的に胎児のメチル水銀曝露量の指標と考えるのは正しくないだろう。(*10);臍帯メチル水銀濃度は出水市民>水俣市民である。胎児性患者の重篤さおよび発生数は断然、水俣市民>>出水市民である。臍帯は胎盤の末端として胎児と繋がる血液の通り道である。胎児性水俣病の存在が明らかになった時、メチル水銀は血液胎盤関門(Blood Placental Barrier;BPB)で留まることなく容易に胎盤を通過すると説明されていた。しかし、環境中(and 魚介類)メチル水銀レベルにおいて水俣湾 >>出水沖八代海であるにもかかわらず、臍帯中メチル水銀レベルが出水市民 >水俣市民という事実をメチル水銀に対してBPBが無効だとして説明することは難しい。そうではなくBPBの通過におけるメチル水銀濃度に閾値があるとする、すなわちBPBは低濃度のメチル水銀には有効であり、母の血液中低濃度メチル水銀はBPBの閾値まで胎盤(末端は臍帯)に滞留するので胎児(新生児)の臍帯中メチル水銀濃度は高くなるが、胎児に侵入するメチル水銀量は抑制されると考えられる。正に、出水市民の臍帯中メチル水銀濃度を示しているだろう。一方、BPBの閾値を超える母の血液中高濃度のメチル水銀は胎盤(末端は臍帯)に留まることなく、胎児に侵入するので胎児の水俣病症状は重篤であり、さらに侵入量が致死量を超えれば死産の発生が予想される。ところで、そのような死産児の臍帯は入手出来ないことから、魚介類のメチル水銀レベルが高かった水俣市民の臍帯中メチル水銀の濃度分布において死産児の分布(高濃度分布)が欠損し、水俣市民の臍帯中メチル水銀濃度の平均値が期待される平均値より相当に低くなったと考えられる。臍帯中メチル水銀濃度において出水市民 >水俣市民を説明することが出来そうである。

水俣湾・八代海沿岸および阿賀野川流域の生態系の異常から、様々な思考が生まれました。水俣病事件とは直接関係していない皆様の忌憚のないご意見・批判がいただければ幸いします。

2015年1月22日(既投稿)-再掲・訂正&「加筆・追記」
2017年10月21日再投稿

1965年5月31日に阿賀野川下流域における水俣病患者5人の存在が新潟大から新潟県へ報告されました。それから50年、2015年5月31日が新潟水俣病公式確認50周年でした【1965年6月12日(新潟大学・新潟県合同会見日)を公式確認日とする場合もあります】。新潟水俣病の初発は下山地区(阿賀野川河口から1.5㎞の河口に向かって左岸集落)の住人で、初発は1964年8月下旬に発生し、続いて10月に2人、11月に1人の下山地区の4人と10月に発症した津島屋地区(阿賀野川河口から3㎞の下山の隣の左岸集落)の1人の合わせて5人が新潟県に報告されました。昭電鹿瀬工場は 1965年1月10日に操業を中止しましたが、前年暮れ(鹿瀬工場操業中)までの発症者は新潟県に報告された5人に加え、12月に発症した兄弟堀地区(河口から 6.3kmの右岸集落)の1人の小計6人です。

続きを読む

その後の患者調査により1965年7月までに合計26人【左岸1.5㎞~5㎞の16人男13人・女3人)5km~8kmの 2人(二人は):右岸河口の松浜地区~5kmの  0人;5㎞~8㎞の8人全員男】の急性・亜急性患者(5人死者全員男)の発生が確認されました。患者は、操業中止後(中止前5カ月間/後7カ月間;6人/20人)、左岸域、および男性に偏って発生しました。男性に偏ったのは何故でしょう。一般に魚食量は男>女です。定量的にその差を示すと、一般家庭の夫婦の差であれば切り身一切れ(25~50g)といったところでしょう。しかし、魚食に偏った漁師家庭の場合、定量化は難しく、男女差は様々でしょう。それでも阿賀野川下流域での魚食量男女差が、急性・亜急性の水俣病患者における男性への偏りの要因であったと思われます。さらに、この男性に偏った急性・亜急性患者の発生、また、最初(8月下旬)と二人目(10月)の発症との間に1か月以上の空期間があり、患者の発生が不連続*1)だったことが、長期連続ではなく短期濃厚のメチル水銀汚染であったことを説明しています。河口域の川幅が約1kmと広い阿賀野川下流において26人の患者の地理分布で、左岸域18人、さらに泰平橋(河口から 5km地に架かって)より下流域に 16/18人と偏っていることから、汚染源(発生)域は、下山・津島屋河岸域(泰平橋より下流の左岸域)であったこと、また、ネコ狂死が津島屋で初発したことも、そこに(左岸域・津島屋付近に)汚染発生域地があったことを説明しています。まさに、患者の初発に係る1964年7~9月にはその比較的狭い水域の川魚がメチル水銀に濃厚汚染されたことが想起されます。26人の急性・亜急性患者発症の時間・地理分布は川魚の季節(生殖行動)依存の回遊経路に一致しています。このような事実があるにもかかわらず、世間認識は汚染発生地が、泰平橋より下流の左岸域ではなく、そこから 60km上流の昭電鹿瀬のアセトアルデヒド生産工場に有るとしている。(*1);患者発生が不連続であったことを重要視するのは、26人の急性・亜急性患者でさえ異なる生態系の異常が別々の時間・地理分布で発生したと捉えることが出来るからです。例えば、女性患者3人はいずれも一日市地区住人ですが、同地区の男性患者が最後に発症した1965年4月から1か月以上いた1965年6月・7月に発症しています。また、阿賀野川下流域における26人の急性・亜急性の患者および中上流域から下流域におけるその他の650人を超える慢性患者の発症において、それぞれの時間・地理分布は不連続・不一致です。すなわち、それぞれの患者は、原因が等しく阿賀野川のメチル水銀汚染ですが、それぞれ異なる状態・条件下で発生したと考えられます。

昭和電工鹿瀬(かのせ)工場は河口から65㎞上流で操業しており、1965年1月10日(新潟水俣病の公式確認の5カ月前)に操業(水銀を触媒としたアセチレンからアセトアルデヒドの生産)は中止しました。急性・亜急性患者およびネコ狂死阿賀野川流域の河口から8km~65㎞の中・上流域において発生したという報告はありません。したがって、昭電鹿瀬の工場廃液が急性・亜急性水俣病を発生させたとする因果関係特異性(メチル水銀汚染源の発生地で最も重篤なメチル水銀中毒症=水俣病が発生するという特異性)は確認されていません。政府見解では工場廃液をメチル水銀汚染源と言わず、巧みな言い回しで阿賀野川流域における長期的メチル水銀汚染基盤としています(科学的に証明していない・まさに見解に止まる)。世間が認識しているのは新潟水俣病裁判(民事訴訟;昭電の流したメチル水銀に汚染された川魚を住民=原告が摂食したことで水俣病になった。被告は補償せよと訴えた)の判決であり、昭電はメチル水銀を流さなかったことを証明できなかったことで敗訴しました。実際、量は不明ですが昭電鹿瀬工場がメチル水銀を流したことは科学的に証明されています。民事裁判では中毒が量(昭電鹿瀬が排出したメチル水銀量)に依存して発生することを重視せず、質(昭電鹿瀬が流した物質がメチル水銀であること)によって水俣病が発生したと裁定しています【本来の中毒学において、中毒とは閾値を超えて発現し、発症率(反応)は量に依存すると説明される ⇔ 昭電鹿瀬の操業中止前にメチル水銀曝露量が中毒閾値を超えたが中毒症状は発現せず、操業中止後にメチル水銀の曝露なしに中毒症状が発現したとする遅発性水俣病には中毒閾値の存在が否定されている】。

1960年~73年までの14年間における新潟水俣病認定患者520名の発症の時間分布(地理分布は含まず)が報告されています。ヒストグラムを数値化(年度・人数)すると、1960・,61・,62・,63・13,64・50,65・115,66・41,67・67,68・57,69・64,70・54,71・30,72・16,73・5 と読めます。年間発症数なので季節分布は分かりませんが、65年・67年・69年に発症数の極大が見られます。

メチル水銀汚染源が1つであれば水俣病の発症(中毒)時間分布は正規分布するはずですが、新潟水俣病患者520名の発症時間分布は正規分布していません。65年・67年・69年に発症数の極大を基に3つの正規分布が重なった分布図と見なすことが許されるのであれば、①阿賀野川中流住民主体の60年~67年(極大&中央値)~73年;慢性発症,②阿賀野川下流域住民主体の64年~65年(極大&中央値)~66年;急性・亜急性発症,および③阿賀野川中・下流住民主体の64年~69年(極大&中央値)~73年;②を起因とする慢性発症の3つと言えそうです。

①と③の慢性発症【専門家は遅発性水俣病*2)と説明しています】を政府は昭電鹿瀬の工場廃液が基盤とし、原因という文字で表しません。慢性発症の時間分布は、原因が稲イモチ病対策の水銀系農薬の大量散布であることを指している可能性が高いのですが、政府は、それを完全に否定しています(*3)。政府見解の基礎資料は、新潟水銀中毒に関する特別研究報告書(科学技術庁研究調整局,1969)です。しかし、当の報告書に、水銀系農薬が汚染源であるという可能性が全くないという記述はありません。一般人がその報告書を読む・理解する機会が無いことを見込んで完全否定したに過ぎまないといって良いでしょう。むしろ、この完全否定が必要だった理由に原因の真実が隠されていると考えてしまいます。*2);曝露量が閾値(threshold)を超えて中毒発現に至るのが教科書的な中毒(学)ですが、昭電鹿瀬の操業中止から数年~10数年を経た中毒発現を説明できないので、メチル水銀中毒は遅発発現(発症)することがあるとした非科学的な説 だと思います⇒ しかし、昭電鹿瀬の工場廃液を唯一のメチル水銀汚染源と特定するためには遅発性水俣病が存在しなければ説明に窮します。50年間も科学を蔑ろにしています。八代海沿岸住民における同様の発症に対しては、慢性水俣病と呼び、遅発性水俣病とは呼んでいません。(*3);政府見解では「 長期汚染の原因は主として昭和電工鹿瀬工場の廃水であり、阿賀野川流域に散布された農薬による汚染は無視し得る」と記しています(新潟水銀中毒に関する特別研究報告書,p572,科学技術庁研究調整局,1969)。

ところで、水俣病特措法においてチッソの操業中止後18か月を過ぎると時間外とし、八代海沿岸では胎児性患者が発生しないことが想定されています。しかし、八代海沿岸の水俣病が、新潟と同じ工場廃液による『公害』であるのなら、遅発性発症に時間外は設定できないのではないでしょうか。一方、新潟では昭電の操業中止後23か月超が時間外です(*4)。時間外の根拠がアセトアルデヒド生産中止であるならば、このズレは何処から生じたのでしょうか。(*4);阿賀野川流域で胎児性水俣病との認定者は1人に限られています。行政では新潟水俣病の公表後、直ぐに住民(とくに阿賀野川下流域で)の頭髪総水銀濃度を測定し、50ppmを超える妊婦には人工妊娠中絶を、そのような女性には妊娠を控えることを要請した。行政では、そのお陰で胎児性患者が発生しなかったと説明している。

昭電鹿瀬工場の操業中止24年後(1989年12月)も汚染レベル(0.4ppm超)の川魚が検出されたことを以って(汚染レベル9匹/総検体23匹)、工場廃水の環境汚染影響が操業中止後も続いているとの主張があります(吉田三男,怒りの阿賀,pp22,あずみの書房,1991)。1989年に工場廃液の影響が残っているのであれば、工場の操業中止後の水俣病の発症形態は遅発性ではないことになると思います。それに、1976年10月には、環境浄化のふれ込みで、昭電鹿瀬排水口直下の河川底から5.4㎏の水銀を浚渫・除去しています。しかし、そのHg量は、阿賀野川流域で散布された農薬由来の水銀量(16.5㌧38.7㌧)に遠く及びません。1976年10月(浚渫・除去)以降に工場廃液由来の水銀の影響は無いと考えるべきでしょう。1989年12月の汚染レベルの川魚の水銀汚染源として、水田に残留した農薬由来の水銀であった可能性が極めて高いことが示唆されます。水銀系農薬以外のどんな水銀の存在が考えられるのでしょうか。まさか、5万年前の只見川・阿賀野川流域の沼沢火山の火砕流を持ち出すのでしょうか.....。

水俣湾では食物連鎖の下位から比較的整然と【プランクトン→魚の斃死(大量斃死ではない)→ネコ狂死;54年に頻発・ヒト発症;56年から続発】生態系の異常が発生しました。1956年~58年の昭電のアセトアルデヒド年間生産量は、1951年~53年のチッソのそれらと同等量でした。その頃、水俣湾沿岸で渡り鳥・カラスの飛行中の落下が多数見られていますが、阿賀野川流域では全く観察・報告されていません。一方、阿賀野川下流域ではネコ狂死も急性・亜急性患者も1964年8月~65年7月までの同時期の発生・収束でした。両者ともメチル水銀汚染ですが、汚染形態は異なっており、アセトアルデヒド生産工場が在ったという事のみ一致しているに過ぎません。その上、百間排水口(メチル水銀の環境への出口)は水俣湾内にありましたが、昭電鹿瀬の排水口は下流の下山・津島屋には無く、それより65㎞上流に在りました。確かに、政府見解では鹿瀬の工場廃液は長期メチル水銀汚染の基盤であって汚染源と表記していません。巧みな言い回し?!?というより逃げの一手のようです。

チッソと昭電のアセトアルデヒド生産方式は異なりますが、反応槽における化学反応系(アセチレンの水銀触媒による水添加反応)はほぼ一致していますので、メチル水銀イオン(CH3Hg+)が副生したのは事実でしょう。CH3Hg+は硫酸溶液中の溶存メチル水銀です。アセトアルデヒド(CH3CHO)の沸点は21℃なので、反応槽をとくに加熱せずともCH3CHOは蒸発し、その蒸気は冷却されて貯留槽に溜まりますが(収量の効率化のため、初期の加熱・蒸留法を後に減圧・真空法へ変更しています)、溶存したCH3Hg+は理論的には蒸発しないので貯留槽に移りません。ところで、水添加反応のためのチッソ地下水昭電阿賀野川の河川水を使いました。

海岸立地のチッソの地下水多量塩素イオンCl-)を含んでおり、反応槽においてCH3Hg+のほぼ全量がCl-と反応し、塩化メチル水銀(CH3HgCl固体=結晶)が多量に生成したことが期待されます。CH3HgCl結晶は、その物理化学的性質によって低温で容易に昇華します。そのため、チッソの貯留槽には、反応槽で気化・昇華したCH3CHO(アセトアルデヒド;上層)とCH3HgCl(塩化メチル水銀;下層)が移動し、滞留したでしょう。上層液を製品とし、下層液を工場廃液としたことが知られています。一方、昭電のCH3Hg+は阿賀野川の河川水に含まれるCl-に相当する量のCH3HgClの生成に止まり、それらが貯留槽に移動したはずです。昭電は間違いなくメチル水銀を流出させましたが、その量は酢酸フェニル水銀系農薬の散布によるメチル水銀量の数千分の一程度だと考えられます(ただし、裁判では昭電は一日当たり500gのメチル水銀を流したと裁定されています。一方で、チッソのメチル水銀排出量は一日当たり10~110gと推定されています。アセトアルデヒド生産量がチッソの 1/4以下の昭電のメチル水銀排出量の方が5~50倍多い?!?という理解不可能な数字が行き交っています)。昭電鹿瀬工場のアセチレン加水反応槽で副生した塩化メチル水銀の科学的予想量からすれば、工場廃液がメチル水銀汚染源の主体だと説明できません。かといって政府見解にある工場廃液が長期汚染の基盤であることを否定する直接的・科学的データはありません。昭電鹿瀬の工場廃液にメチル水銀が含まれていたことは事実であり、科学的に説明されています。新潟水俣病問題(民事裁判の争点)を定量的に捉えることなく(昭電鹿瀬工場が流したとされる 500gのメチル水銀量は急性・亜急性水俣病を発生させる量を逆算・推定した量に過ぎない)、定性的な事実(鹿瀬工場の排水溝の苔からメチル水銀が検出された)だけで説明しています。疫学上の因果関係の評価において量反応関係が成立してなければ、その因果関係は存在していないと判断せざるを得ません。定性的評価は、正に、逃げの一手に他ならないと思います。

それでも、昭電鹿瀬工場からメチル水銀以外の重金属(Hg・Fe・Mn等々)が流されていたのであれば、メチル水銀中毒を加重的・加速的に重篤にした可能性は高いと考えています。水俣湾沿岸の自然発症(狂死)ネコの腎臓中総水銀濃度よりも阿賀野川下流産川魚で飼育したネコ(衰弱死⇒発症死でない⇒脳のメチル水銀濃度は水俣の自然発症ネコのそれらよりかなり低く、メチル水銀中毒が致命症でない可能性を否定できません)のそれら方が断然高いという記録があります。昭電が新潟水俣病患者の訴えに負けた民事裁判は、結果的には正しいと思います(昭電が廃液処理を怠り、メチル水銀を流したという過失責任は確かにあります)。

阿賀野川最上流は阿賀川です。阿賀川は福島県の大河であり流域は米作地帯です。阿賀川流域で散布された水銀系農薬由来のHgが阿賀野川を加重的に汚染したことは否定できないでしょう。阿賀川のデータではありませんが、福島市の水源としていた阿武隈川から0.6ppmの高濃度水銀の排水基準(*5)は0.5ppbなので、その千倍超]の総水銀が検出されています(朝日新聞, 1974.11.2)。また、新潟県のもう一つの穀倉地帯である上越の関川流域でも16人に水俣病症状があると診察されています。関川流域ではアセトアルデヒド生産量でチッソに続く第二位のダイセル新井工場が操業していました。(*5);水銀の環境基準は設定されていません⇒水銀のクラーク定数は80 ppb(μg/kg)であり、分析技術が高ければ自然界;海水などから常に数 ppt (ng/L)程度の無機水銀が検出されます。

新潟県上越地方を流域とする関川最下流および関川最下流に流れ込む保倉川最下流で捕獲されるニゴイは2013年の時点でも総水銀で0.4ppm超、メチル水銀で0.3ppm超の汚染魚であり、1974年以来漁獲の自主規制が続いています。新潟県は、関川下流域環境のメチル水銀が汚染レベルに留まっている原因は関川最上流の支流である白田切川の火山性水銀であると言います。胡散臭い自然災害説です。鹿児島湾と同様に、自然由来の水銀汚染であれば、補償・環境改善への支出は無くて済みます。自然災害とは、行政にはこの上もなく都合の良いもののようです。

阿賀野川流域住民は習慣的に魚影の濃い川魚を蛋白源として多食してきました。米作地帯の川魚のメチル水銀濃度は農薬の散布時期であれば5~10ppmに達しています。①10(5)ppmの魚を毎日200(400)g食べる者は2か月後には閾値を超え中毒発現するでしょう。②10(5)ppmの魚を毎日100(200)g食べる者は500日後には閾値を超え中毒が発現しますが、50(100)gでは中毒閾値を超えません(中毒しない)。②の者であっても時に(10日に1日程度)1kg/日を超えるような爆食いをすると①よりも早く閾値を超える可能性があります。したがって、メチル水銀汚染魚の継続多食あるいは爆食がメチル水銀中毒の最大のリスクです。ネコのように必須栄養素としてのタウリン摂取のために継続的に魚食が必須・必然である場合は、メチル水銀汚染魚の摂食によってメチル水銀中毒が発現するでしょう。複数のネコ狂死などの生態系の異常が確認されている関川流域で16人のメチル水銀中毒者(認定されていません)というのは、多食者が少なかったに過ぎません。関川流域の住民の川魚摂取習慣が阿賀野川流域住民並みであれば、大変なことになっていたと思われます。

昭和電工鹿瀬が訴えられ、関川流域で操業したダイセル新井が訴えられなかった差は、阿賀野川で急性・亜急性患者(20ppmであれば300g/日×15日で発症)が発生したことに加え、両河川流域住民の川魚摂食習慣に差があったことが考えられます。関川のメチル水銀中毒患者(認定されていません)がダイセル新井工場より上流域に居住していたことも何かしら影響したのかもしれません。

2015年6月6日投稿済....再掲・訂正&「加筆・追記」
2017年11月3日再投稿(加筆・訂正あり)

新潟水俣病は昭電鹿瀬工場(阿賀野川上流65kmで操業)の廃液を汚染源とするメチル水銀公害と認識されています。1965年6月14日から新潟水俣病の患者・環境調査が阿賀野川下流域を中心に行われました。患者調査では、1965年7月までに急性・亜急性患者26人を確認・水俣病と認定しました。しかし、2015年までの認定患者は702人に達しています。702人からその26人を除いた676人の認定患者の多くは、遅発性発症をしたと説明されています。

続きを読む

環境調査としての下流域住民6人および上流・鹿瀬地区住民1人の頭髪の生え際からの距離(長さ)に対応した頭髪総水銀(HairHg)濃度の測定が多くの情報を発信しています。頭髪は平均的に1か月に11mm伸びるとされています。したがって、例えば生え際から11cmの部分は、平均的には10か月前のメチル水銀(MeHg)曝露量を示していることになります。「頭髪総水銀濃度の時間分布」図(水俣病,pp298,青林舎,1979)における総水銀濃度は(ppm,Hg・mg/Hair・kg)、表記が対数目盛(総水銀濃度の変動幅が非常に大きかったことの裏返しです)なので、高濃度域では見た目の変動幅が小さくとも実際のそれらが大きいことに注視すべきです。下流域住民6人のうちの1人は下山地区(シタヤマ;河口から 1.5~2kmの集落 )の女性です。記録された歯抜けの姓名からは、1964年8月下旬に発症し、2か月後の10月29日に亡くなった初発患者の家族(妻)だと思われます。ただし、26人の急性・亜急性患者ではありません。MeHg曝露量の観察記録期間は1963年5月から始まり1966年7月までの約2年と 長く、貴重な情報を発信してくれます。とくに季節的変動が検討できるので貴重です。1963年6月~1964年6月(新潟地震発生月)の一年間に、極大値45ppmが63年10月頃(前月の9月は極小かつ最小の15 ppm)に見られます。1964年6月以降では、1964年11月の150 ppm が最大であり、12月は130 ppm、1965年1月;110 ppm、2月;50 ppm、4月;30 ppm、そして7月;15 ppmです。最大値を示した 1964年11月の前月の10月は極小ではありません。したがって、前年1963年10月に見られた極大値(季節的変動)とは異なる要因を含んだMeHg曝露形態であったと思われます。1964年7月;20 ppm、8月;30 ppm、9月;60 ppmは測定値ですが、10月は、9月および11月の測定値を結んだ線上の100 ppmという推測値です。一方、下山女性以外の他の下流域住人5人の記録をみると、それぞれの最大値がほぼ1965年2月にあります。したがって、6人のHairHgはいずれも1964年6月16日に発生した新潟地震後最大値を記録したことになります*1)。なお、その5人のうち1人一日市在住の女性で、26人の急性・亜急性患者のひとりです。最大値は400 ppmを超えています。その他の4人が26人の急性・亜急性患者か否か、性別も、記録からは判別できません。しかし、その他の 5人のHairHgの極大値の月がほぼ等しいことから残りの 4人が一日市住人である可能性が高いことが示唆されます。そうすると、下山河川域の環境の方が一日市河川域のそれらより 3カ月早く汚染のピークがあったと言えるでしょう。*1);新潟水俣病裁判での被告=昭電の主張 ⇒ 東北3県-山形・秋田・青森-に海送すべく新潟港埠頭倉庫に保管してあった紙袋入り水銀系農薬が新潟地震津波によって日本海に流出し、新潟港から東北東5㎞離れた阿賀野川沖にしばらく滞留した後、夏季の渇水期の満潮時に阿賀野川河口から日本海海水の遡上とともに運ばれたとの主張(塩水楔説) ⇒ 最大でも塩水楔は阿賀野川河口から 8㎞まで遡上するので 26人の急性・亜急性患者の発生流域に一致するとし、したがって、昭電鹿瀬工場の廃液は阿賀野川下流域のメチル水銀汚染源ではないと反論しました。下流域住人6人のHairHg濃度の最大値が新潟地震後に存在したことは、事実であり(工場廃液説であれば下山住人のHairHgの変動を説明できない)、昭電にとっては有利なデータだったでしょう。さらに、 下山住人を除く5人のHairHgの極大値が昭電鹿瀬工場の操業中止をした 1965年 1月10日より後の1965年 2月に出現していることを以って、下流域のメチル水銀が鹿瀬工場から流出したものであるとするのは全く無理な論述と言えるでしょう。

下山女性以外の5人は全て一日市(ヒトイチ;河口から4.5kmの集落)の住民と考えられます。一日市住民のHairHg濃度の最大値は下山住民のそれより約3か月遅れて発現しています。阿賀野川の河口から65 km上流に位置するアセトアルデヒド工場の廃液が阿賀野川下流域のメチル水銀汚染源であれば、少なくともより上流に位置する一日市流域の方が下山流域より早期に汚染されることが期待されます。このように誰でもが知っている自然現象河川水は上流から下流へ流下する)を、問題の紐解き(疫学研究)の際に無視することで、工場廃液がMeHg汚染源だとの印象付けが図られているようです。正式な政府見解は、『阿賀野川の汚染形態としては、長期汚染の事実と、これに比較的短期間の濃厚汚染が加わった可能性とがあるが、いずれにしても長期汚染が関与し、その程度は明らかでないが本中毒発生の基盤をなしたものと考えられる』・『長期汚染の原因は主として工場廃液であり、阿賀野川流域に散布された農薬の影響は無視しうる』です。この場合、短期濃厚汚染についての地理分布に触れないことで、それが下流域だけで起きたという事実をあえて無視しています。翻ってみれば、短期濃厚汚染が阿賀野川全流域で起きたと誘い込むことで、1964~65年に発生した下流域の急性・亜急性水俣病(短期濃厚汚染)と、初発が60年ごろで、発症ヒストグラムの中央値が68~70年にあって75年頃まで阿賀野川全流域で発症した遅発性慢性)水俣病とを区別せず、両者のMeHg汚染源が同じいずれにしても長期汚染が関与)であるとしています。その上、基盤をなした程度は明らかでないとメチル水銀中毒がメチル水銀曝露量の程度にかかわらず発生するとの意味不明見解によって、さらに、水銀系農薬の大量散布についての国の責任は無視しうるとする一言(断定)で真実を覆い隠しています。これが新潟水俣病が工場廃液による「公害」であるとした政府見解の実体です。

続いて、上流域、鹿瀬住民(女性)のHairHg濃度の時間分布です。鹿瀬工場の操業中止前(1965年1月10日以前)、すなわち操業中の極大値は64年7・8月の150 ppmであり、操業中止後のそれは65年7・8月の200 ppmです。鹿瀬町住民のHairHgが、アセトアルデヒド工場の稼働中よりも中止後の方が断然高いことの説明はどの研究者・関係者もしていません。工場廃液をMeHg汚染源とすると説明困難だからでしょう。一方で、このHairHg濃度の時間分布は新潟地震発生前にすでに阿賀野川上流域がMeHgに汚染されていたことの証拠であると正しく説明されています。昭電が主張した『下流域のMeHg汚染は新潟地震後に発生した』を論破するために使われました。しかし、鹿瀬住民のHairHgのメチル水銀が工場廃液由来であるとは言いませんでした。科学的なデータであっても、主張の都合に合わせて使用・不使用を決めています。これこそ、新潟水俣病のMeHg汚染源に対する世間の認識が誘導されたものであることを説明していると思います。

ところで、鹿瀬住民のHairHg濃度は1964年および1965年の夏に極大を示している。稲イモチ病対策の水銀系農薬散布はまさに 7月下旬から 9月上旬に集中することから、阿賀野川流域の米作地帯(水田)環境、さらに流域の各河川水にMeHg負荷増があったことが想起されます。ただし、稲イモチ病対策に大量に使用された酢酸フェニル水銀系農薬に含まれるメチル水銀量について新潟水俣病裁判において昭電筋は実際に酢酸フェニル水銀系農薬(セレサン石灰)の定量分析の結果を示して少量(0.13%・MeHg/農薬中全Hg)と主張したが、政府筋は試薬としての酢酸フェニル水銀の電子捕獲検出器付きガスクロマトグラフ分析で微量(0.01%)とかわしている(*2)。昭電鹿瀬の工場廃液が阿賀野川流域の主要なメチル水銀汚染源でなければ、状況証拠が豊富な稲イモチ病対策に大量散布された酢酸フェニル水銀系農薬から相当量のメチル水銀が発生したと考えざるを得ない。この鹿瀬女性が 1965年の夏季に摂食した川魚は、①1964年の短期濃厚汚染された下流域*3)で棲息・成長したことによってMeHgの濃厚曝露があった上で、②通常の生殖行動のために上流へ回遊・遡上し、さらに鹿瀬流域において夏季の農薬由来のMeHgの追加曝露のあった個体が相当数含まれていた。実際、そうであれば、彼女の1965年のHairHg濃度(200ppm)が1964年のそれら(150ppm)より高かったことを説明できそうです。彼女が食した川魚のMeHgレベルが変動せず、魚食量が前年の 1.3倍(200/150)になったのではなく、魚食量は同じで川魚のMeHgレベルが前年の 1.3倍高くなったと考えています。(*2);詳しくは「新潟水俣病裁判」の記述をご覧ください。(*3);1964年6月16日の新潟地震によって新潟港桟橋が崩落し使用不可になったため、それまでの水銀系農薬の東北3県への海上輸送に代えて泰平橋を渡る陸上輸送に取り組むため泰平橋左岸下河川敷に水銀系農薬紙袋を野積みした。ところが、野積みされた大量の水銀系農薬紙袋が、1964年7月9日の梅雨空け前の洪水によって下山・津島屋河岸域(下山および津島屋地区を区切る通船川河口岸から200 m離れた中州)に流失、漂着、および数か月間滞留し、その後、阿賀野川の流れで日本海に流出するまでの間が短期濃厚汚染時期と考えられます;詳しくは最後の段落に記します。

鹿瀬女性HairHg最小値 80 ppmと記録されています。彼女が摂食した川魚は夫の釣果とのことですが、夫は余り食べなかったそうです。夫のHairHgは三度測定されていますが、108 → 75 → 5 ppmと計測の度に低下しています。測定に関わる記録(実験ノート)がないので真実は分かりませんが、男性なので短髪であり、途中で散髪が入れば過去のHg曝露記録は失われます。彼女の最小値である80 ppm(MeHg中毒の閾値程度の曝露状態)は、聞き取り調査によって彼女の川魚摂取期間外であったと記録されています。1964年・65年共に、1月から3・4か月連続しています。したがって、その80 ppmは、妻の外部曝露(農薬を被った)分である可能性を否定できません。すなわち、夫の内部曝露(川魚摂取)量は外部曝露量を除いた28(108ー80)ppmであり、散髪の都度、外部曝露記録分(頭髪の生え際から遠い部分)の消失(切り取り・散髪)によって75 ppm および 5 ppm(川魚の摂食が無かった時期に対応したHairHg 濃度)として測定された可能性は十分あると考えます。実際、彼女の頭髪総水銀濃度の最小値が80 ppmであったにもかかわらず、当時、彼女に水俣病症状がなかったという疑問を、何れの研究者もあえて説明していません。通年的にHairHg・80ppm以上のMeHg曝露でMeHg中毒しないと説明することになるのではないでしょうか(*3)。自宅でブドウを栽培していたこの女性の80 ppm分が水銀系農薬を被った(外部曝露による)ものであれば、一時的に高い内部曝露量 70 ppm(150ー80) or 120 ppm(200ー80)では急性・亜急性の発症が無かったことを説明できそうです。(*3)この女性は最終的には水俣病と認定されましたが、HairHg測定当時は水俣病でないと診断されました ⇒ 急性・亜急性発症はしていなかったので水俣病でないと診断.......その後、(遅発性水俣病として)認定されました。遅発性発症の本態は慢性発症であると考えています=毎年夏季に限定されたHairHg濃度で70~120ppmのMeHg曝露を受けたことによるMeHgの長期反復高濃度曝露 ⇒ 彼女のHairHg濃度の時間分布は誠にもって正しい曝露記録と認識できます。;ところで、阿賀野川下流域ではHairHgのモニタリングが行われ、50 ppm以上の女性で妊娠中であれば中絶を、それ以外の女性には妊娠を控えるように指導しました ⇔ 新潟の胎児性患者は1人ということになっています ⇔ 行政は調査・指導の成果だと言います。

下流域住民のHairHgの時間分布からは、新潟地震(64/6/16)後間もなく急激なHairHgの上昇が見られています。その極大月(時期)に下山地区住民の方が一日市地区住民より3カ月早いという地域差が見られています。下山地区の川魚の漁場の環境中MeHgレベルの方が一日市地区のそれらより3カ月早く極大を迎えたことを説明するものだと思います。極大値(最大値)の地域(2.5 - 3 ㎞)差は下流域で高濃度のMeHgに曝露された川魚の生息地の移動(遡上)で説明できそうです。また、患者の初発は下山地区なので、最高レベルのMeHg負荷源は下山流域に在ったと考えてよいでしょう。

環境汚染の大原則】:汚染物質が最初に環境と接する処が最も汚染される ⇒ 例えば;熊本水俣病では先ず百間排水口・百間港が汚染された ⇒ 漁船船底の付着物除去に利用した ⇒ 工場廃液中MeHgで、着生したカキやフジツボを死滅させ、さらに新たなそれらの着生を予防した ⇔ 百閒排水口・百閒港(その地汚染源地)で生態系の異常初発した ⇔⇔ 新潟水俣病事件で昭電鹿瀬の工場廃液が阿賀野川全流域に対する主たるMeHg汚染源であるならば ⇔ 昭電鹿瀬工場排水口と最初に接する阿賀野川(河川水・底質)が高濃度に汚染される ⇔ その地(鹿瀬工場排水口)生態系の異常初発する???......そのような報告無い........【政府見解の正当性を主張するならば、環境汚染の大原則が間違いであるという科学的根拠が必要だと思います】

下流域・短期濃厚メチル水銀汚染源は!?!】 ⇒ 新潟地震・津波(64年6月16日)の被害で新潟港・桟橋は使用困難になりましたが、倉庫群への被害は軽微でした。すなわち、稲イモチ病対策用の大量の水銀系農薬を山形・秋田・青森(東北三県)へ海上輸送するために新潟港倉庫群に一時保管されていましたが、津波海水に侵されたのは少量でした。東北三県における稲イモチ病発生時期(7月下旬から)が近づいており、桟橋が使えないことで、緊急的に倉庫群の水銀系農薬の海上輸送に代えて陸上輸送が図られました。ところが、阿賀野川に架かる橋で震災を受けなかったのは唯一『泰平橋(河口から5㎞)』であり(竣工から程ない昭和大橋・信濃川の落橋は余りに有名な事実)、新潟港から直接東北三県へのトラック輸送は困難でした。とくに、震災直後の新潟市内の交通事情は混乱していたので、新潟港 → 泰平橋下左岸河川敷(野積み)→ 山形・秋田・青森の連携で陸上輸送を実施しました。しかし、7月3~9日に梅雨空け前の大雨となり、7/9には泰平橋下左岸河川敷の野積み紙袋入り水銀系農薬がすっかり流失したとのことです(中川良三,加藤龍夫,安全工学,30,p99-108,1991)。阿賀野川下流域の急性・亜急性患者は、泰平橋より下流①16人上流②10人発生しましたが、下流①では左岸偏在し(16/16人)、上流②では右岸偏在しています(8/10人)。泰平橋下左岸河川敷に野積みした紙袋入り水銀系農薬の洪水による流失・滞留(通船川河口から200 mの下山・津島屋地区河岸域/中州と考えられる)が短期濃厚MeHg汚染発生源とすれば、これらの急性・亜急性患者の地理分布の偏りは、川魚の生態の実態を通して矛盾なく説明できると考えています。

2015年8月1日投稿済....再掲・訂正&「加筆・追記」
2017年11月12日再投稿(加筆・訂正あり)

現役時代にそれなりにお世話になった先輩(s19生)とメールで再会しました。20年以上音信不通状態でした。早速、水銀系農薬によるメチル水銀汚染について、具体的に「鹿児島湾第六水俣病問題(先輩の鹿児島勤務時代の出来事)」などの例を挙げて筆者の考えを披露しました。筆者としては、レイチェル・カーソンの「沈黙の春」などを通して環境汚染の問題を厳しく追及されていた先輩からの適切なコメントがあることを期待していました。

続きを読む

ところが、酢酸フェニル水銀系農薬は水銀汚染という問題はあるが、含有メチル水銀量が微量(試薬の酢酸フェニル水銀に 0.01%のMeHgが含まれているという政府筋の主張)なので水俣病は発生しないこと、さらに、この問題(農薬中の含有メチル水銀量)は水俣病研究者が議論を尽くして結論したことを挙げ(議論ではなく実際に酢酸フェニル水銀系農薬のMeHgの定量分析をするのが科学的本筋だと思う.....)、熊本水俣病と新潟水俣病はいずれも疑いなく「公害」であり、筆者の水銀系農薬に関わる調査・研究の方向においてメチル水銀汚染・水俣病を視野に入れるのは可笑しいと、筆者には期待外れであるだけでなく、筆者の矜持を否定する意見(忠告に近い)をもらいました。

本稿では、「先輩への反論」という部分もありますが、新潟水俣病裁判であった『酢酸フェニル水銀系農薬中のメチル水銀濃度に関する論争』について記し、世間一般の人々の認識を一つに集約することに努め、真実を覆い隠したまま明らかにしない行政の実態を伝えたいと思います。

新潟水俣病裁判の記録

(a)被告=昭和電工は、昭和41年中酢酸フェニル水銀農薬にメチル水銀化合物が混入しているかどうかを実験分析した結果、ECDガスクロ(*1)により、試薬中0.05%、農薬原体中0.13%ないし0.25%のメチル水銀を検出したので、その結果を直ちに厚生省に報告した。(b)そこで、昭和41年12月、科学技術庁の指示により、被告と厚生省とがそれぞれ試料(酢酸フェニル水銀試薬、農薬原体、無機化合物)を持ち寄って、いわゆる交換分析を行なうこととなり、厚生省側では、試験研究班員の国立衛生試験所と東京歯科大学がガスクロ分析を担当することにした。被告の分析の結果は、厚生省側提供の酢酸フェニル水銀試薬に0.05%、農薬原体中水銀には0.13%ないし0.15%のメチル水銀が含まれている旨の数値が出たが、厚生省側からのそれぞれの分析結果は公表されなかった。(c)そして昭和42年1月中、国立衛生試験所において、同試験所および神戸大学、新潟大学、東京歯科大学、東京理科大学、厚生省食品衛生課の六機関立会のうえで同じガスクロ実験分析をしたところ、酢酸フェニル水銀試薬中に含まれるメチル水銀化合物は0.005%ないし0.009%という結果が出た。但し、右実験分析においては、時間の制約から、20分ないし30分以内にできる限り多くの試料を処理する必要があっため、メチル水銀に相当する位置を経過後直ちにつぎの試料の注入を行なうなど、極めて変則的な方法をとっており、立会者らは、この方法が測定値の正確を期するうえで非常に危険であることを認めている。(*1);電子捕獲型検出器のついたガスクロマトグラフ;電子、とくにハロゲン電子を特異的に、さらに感度よくキャッチする検出器なので微量の塩化メチル水銀の定量分析に使われます。また、ハロゲン電子を特異的に検出出来ることから、塩化物(フッ化物・ヨウ化物・臭化物)の定性分析としても有益です。

このような裁判記録(法律に準じるという原則がある)があるにもかかわらず、その当時の研究者が酢酸フェニル水銀(試薬)のメチル水銀含有率の定量実験で得られた0.005%ないし0.009%(裁判では0.01%と四捨五入値が使われた)を以って酢酸フェニル水銀系農薬(原体)のメチル水銀含量として認識したようです。

国立衛生試験所、神戸大学、新潟大学、東京歯科大学、東京理科大学、厚生省食品衛生課の六機関の内の各大学には当時の水俣病研究者が含まれています。六機関の立会いが単に立ち会っただけの評価に過ぎません。ECDガスクロマトグラフ分析の手法が極めて変則的方法という評価の前に、酢酸フェニル水銀系農薬の原体でなく酢酸フェニル水銀の試薬の分析自体が、「酢酸フェニル水銀系農薬中のメチル水銀濃度」を知るための実験としては不適当であると評価しなかったのでしょうか。しかし、本来、国(厚生省・農林省・経済産業省.....さらに裁判所も)が為すべきことは、各農薬製造会社の製品(酢酸フェニル水銀系農薬の原体)を集め、自社製品と目隠し製品のメチル水銀分析を命じることではないでしょうか。それをせずに、わざわざ、国の主導でデータ(それも農薬原体でなく試薬を使った)を出し、極めて変則的な方法と言われたことまでも無視し、さらに、その「酢酸フェニル水銀の試薬中に 0.01%のメチル水銀が含まれていた」というデータを「水銀系農薬にメチル水銀が 0.01%と極めて微量含まれているに過ぎない」と正当化したのは、未必の故意による認定様式ではなく、まさに故意的認定とさえ言えるものだと思います。

文系の研究者・専門家(裁判官を含む)であっても、酢酸フェニル水銀系農薬中のメチル水銀の正しい定量値として0.01%を採用しないのではないでしょうか。新潟水俣病裁判で裁定した裁判官の真意は何処にあったのでしょうか。さらに、0.01%という数字が先輩を含めた研究者に蔓延したのは、どういった経路・経過があったのでしょうか......。「先輩が言い放った、『水俣病研究者が議論を尽くして結論した』を俄かに信じることは出来ません。」

残されたデータ

一方、これとは別に科学技術庁による新潟水銀中毒に関する特別研究における試験研究班が、薄層クロマトグラフィー(TLC)による各種有機水銀化合物の定性・定量分析を行っています(新潟水銀中毒に関する特別研究報告書,pp126~129,科学技術庁研究調整局,1969;以下、この報告書をAと記します)。TLCの試料には水銀系農薬原体と思われるS-112S-161S-167S-174と記されたものが使われており、その全てに2つの明瞭なスポットが得られています(A,pp129)。標準試薬としての酢酸フェニル水銀塩化エチル水銀が使われていますので、TLC試料が酢酸フェニル水銀主剤の農薬原体であると予想されます(A,pp129)。しかし、このTLC展開の際、塩化メチル水銀を標準試薬として採用していません。報告書では各試料の定性・定量に関しての記述はありませんが、各試料の薄層クロマトグラム上に2つのスポットが在り、それらの展開位置が酢酸フェニル水銀塩化エチル水銀の標準スポットの展開位置と異なっていることが図から読み取れます(A,pp129)。したがって、各試料の構成成分は酢酸フェニル水銀塩化エチル水銀のいずれでもないことが推定できます。別のTLCによる標準試薬の移動距離(極性)からは塩化フェニル水銀および塩化メチル水銀の展開距離にほぼ一致するようですが(A,pp128)、ここでもS-112等の農薬原体と思われる試料と塩化フェニル水銀および塩化メチル水銀を同一プレート上で展開させた薄層クロマトグラムは示されていません。酢酸フェニル水銀からメチル水銀が生成するという事実を隠すため、塩化フェニル水銀系農薬を試料としたのではないかと思えてしまいます。

また、塩化メチル水銀を薄層クロマトグラフプレート上で確認するには少なくともメチル水銀として0.2μgが必要と記されています(A,pp143)。したがって、農薬原体中に含まれる0.009%濃度(ここでは厚生省の発表した酢酸フェニル水銀試薬中のメチル水銀濃度を敢えて用いています)のメチル水銀をTLC上で検出するためには最小で2.2mg(0.2μg÷0.009%)を超える農薬原体の展開が必要です。しかし、2.2mgという負荷量ではTLCプレート上にスポットすること自体もかなり難しい上に、スポットできたとしても激しいテーリングが起こるので、明瞭な(独立した)スポットを得ることは、ほぼ不可能です。報告書にあるように2つの明瞭なスポットを得たのであれば、農薬原体中のメチル水銀濃度%以上であったことになります。酢酸フェニル水銀系農薬が “稲イモチ病”の予防と治療に、長年、集中的にかつ大量に使用されました。したがって、酢酸フェニル水銀系農薬に混在する%メチル水銀が、重大なメチル水銀汚染を発生する可能性は否定できないでしょう。酢酸フェニル水銀系農薬の原体0.15%のメチル水銀が含まれているとする昭電(被告)側の測定値は、試験研究班の試薬測定値0.009%の16倍です。試験研究班%という値は半定量値なので採用しにくいでしょう。しかし、政府筋が農薬原体での分析値と試薬での分析値を入れ替えたことをどう正当化するのでしょうか。

新潟水銀中毒に関する特別研究報告書に別のフェニル水銀系農薬のTLC分析結果が記されています。酢酸フェニル水銀系農薬原体20mgを1ml-95%エタノールで溶かした農薬原体溶液の10μlおよび50μlをTLC分析したところ、10μlの場合は酢酸フェニル水銀のスポットのみ検出されていますが、50μlの場合は酢酸フェニル水銀のスポットと標準塩化メチル水銀に一致するスポットが検出されています(A,pp273-275)。フェニル水銀系農薬原体中のフェニル水銀の含有量は裁判でもその数値は厚生省と被告との間で争われることなく0.17%~0.4%含まれているとされています(水俣病-20年の研究と今日の課題, pp204,有馬澄雄編,青林舎,1979)。1ml-95%エタノールで溶かした農薬液50μl中には1000μg=(20mg × 50μl ÷ 1000μl)の農薬原体が含まれていると算出できます。そうすると、その中のフェニル水銀量は1000μg×(0.17%~0.4)=1.7~4.0μgと推定できます。塩化メチル水銀のTLC上検出限界0.2μgと記されていますので(A,pp130)、検出されたメチル水銀濃度は最小でも酢酸フェニル水銀の5.0~11.7%[0.2μg÷(1.7~4.0μg)]含まれていると逆算できます。厚生省の示した0.009%の550~1300倍の値を試験研究班が間接的に報告していることになります。

さらに、重要な記載があります。酢酸フェニル水銀系農薬原体200mgの95%エタノール溶液20mlを用いて再結晶を試みています。アルミナGを担体とする薄層クロマトグラフィー(移動相;クロロホルム:メタノール:水=80:20:2)で、濾過液試料(再結晶操作によって主に夾雑物が濾過液に移る)に、酢酸フェニル水銀および標準塩化メチル水銀同じRf=0.45(移動距離)でナフチルチオカルバゾンによる発色で標準塩化メチル水銀と同じ赤~赤紅色酢酸フェニル水銀は、Rf=0.15,赤~赤紫色スポットを認めています(A, pp273-275)。再結晶試料からは酢酸フェニル水銀スポットだけが認められています(A, pp273-275)。酢酸フェニル水銀系農薬に含まれていたメチル水銀は主成分(再結晶成分)ではなく、夾雑物(数%以下;濾過液成分)ということになります。したがって、酢酸フェニル水銀系農薬の大量散布では夾雑物としてのメチル水銀農業用水に溶出し、阿賀野川に流出したことが期待されます。

厚生省は終始農薬原体の分析結果を公表しなかった上に、試験研究班(主体は厚生省の所管する国立衛生研究所)は酢酸フェニル水銀農薬原体中のメチル水銀の定量分析に消極的でした。結果として、(化学の知識に精通していないだろう法学専門家の)裁判官に酢酸フェニル水銀試薬中のメチル水銀濃度を酢酸フェニル水銀系農薬原体中メチル水銀濃度と同じであるとの判断を誘導した可能性があるのではないでしょうか。筆者が調べた限りですが、その後も厚生省による酢酸フェニル水銀農薬原体中のメチル水銀濃度の公表はもちろん、酢酸フェニル水銀系農薬のメチル水銀分析をした形跡はありません。

昭電(被告)にとって工場廃液説を否定するための塩水楔説(1)を完成するために水銀系農薬原体中のメチル水銀濃度が相当に高いという証明が求められていました。そのために様々な水銀系農薬原体の水銀分析を行っています。塩水楔説を展開した北川は、種々の水銀系農薬のうち塩化フェニル水銀およびヨウ化フェニル水銀で製剤した農薬にはメチル水銀はほとんど含まれないが(フェニル水銀中のメチル水銀含有率;平均値 0.026%,最小~最大 0~0.1%,分析試料数n=9,農薬1㌧当りの平均メチル水銀含有量0.75g)、酢酸フェニル水銀製剤にはある程度(0.86%,0.08~3.0%,n=15,29g)含まれると報告しています(水俣湾と阿賀野川,pp86-87,北川徹三,紀伊国屋書店,1981)。また、酢酸フェニル水銀製剤に含まれるメチル水銀はフェニル水銀の酢酸体の分解によって生成すると予想し、メチル水銀の生成量はフェニル水銀の化学形態で異なることを指摘しています(同上,pp86-87)。そうであれば、阿賀野川流域における水銀系農薬の使用量が1年間で1000㌧を超えていましたから、それに含まれているメチル水銀量は750g~29kgとなり、それが二か月間(7月下旬から9月上旬)に散布されたのだから、決して無視できない数値だと思います。チッソが流したメチル水銀の推定量は4kg~40kg/年です(水俣病の科学,pp179,西村肇,日本評論社,2001)。一日当たりに換算すれば水俣湾よりも阿賀野川のメチル水銀量の方が多いとさえ言えるほどです。昭電の塩水楔説はかなり無理な原因設定だと思いますが、フェニル水銀系農薬中のメチル水銀含量を明らかにすることは重要だと思います。しかし、すでに、日本国内では水銀系農薬は製造、販売が禁止されており、入手して水銀系農薬原体中のメチル水銀含量を明らかにすることは困難です。全国の農家の片隅に残された水銀系農薬があれば、環境省および民間によるダブルチェックの水銀分析ができるのですが…..。

(1)塩水楔説;夏季の渇水期における満潮時の海水は、河川水よりも海水の比重が大きいために、海水が河床を伝い、河川水を持ち上げるように遡上する様子をいう。1964年6月16日の新潟地震で発生した津波が、
山形・秋田・青森の東北3県に海上輸送する水銀系農薬を一時保管中の新潟港埠頭倉庫を襲ったことで、水銀系農薬が日本海に流出したという。昭電の主張;その時の水銀系農薬が新潟港(信濃川河口)から5 ㎞離れた阿賀野川河口域の日本海に流れ着き、夏季の渇水期に阿賀野川を遡上した。この塩水楔の遡上最大距離である 8 kmは、正しく、新潟水俣病の26人の急性・亜急性患者の発生範囲であり、新潟港埠頭倉庫の水銀系農薬で患者発生地域が汚染されたと説明した。水銀系農薬1㌧当たり、メチル水銀が最大でも0.4 gとの報告を得ている厚生省(何故か原告側に立っている・本来なら中立の筈だが....)は余裕を持って、塩水楔説と対峙した。昭電の主張する1㌧あたり29 gのメチル水銀が正しいと認められれば、新潟水俣病裁判はもっともめていたことでしょう。

2015年3月15日(既投稿)-再掲・訂正&「加筆・追記」
2017年12月16日再投稿(加筆・訂正あり)

↑このページのトップヘ