1973年5月22日、八代海と対峙しない海岸線の熊本県天草郡有明町(天草上島・現上天草市有明町)において第三の水俣病の発生が疑われるとする記述が、熊本県の委託研究に対する熊本大学第二次水俣病研究班の報告書にある、という報道がありました(朝日新聞,73.5.22)。有明海第三水俣病問題発生のきっかけです。

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突然降って湧いたような問題を報道したような印象ですが、そうではなく、くすぶり続けていた水俣病問題(68年5月のチッソ水俣工場のアセトアルデヒド生産停止後の68年9月に水俣病の原因企業についての政府見解が発表された;既に工場廃液が汚染源と分かっていたが、敢えて生産中止後に、見解を大々的に発表した⇔企業活動擁護環境汚染は二の次)を含む公害問題を一機にスクープとして社会問題にしようとするものだったと考えています。朝日新聞以外の報道各社が全く手も足も出せなかったほどのスクープでなかったことは、翌日からの報道合戦が証明しています。各社もそれなりのデータの蓄積があったと思われます。実際、水俣病問題は有明海・有明町に止まらず、全国的な水銀パニックに陥りました。これまでOB会HPに投稿してきた、徳山湾第四関川第五鹿児島湾奥第六の各水俣病問題に飛び火しました。

ここに至った背景があります。水俣病公式発見(1956年5月1日)以降、熊本大医学部各研究室では来る日も来る日も水俣病の実態を調査・研究していました。それらの調査・研究から、未認定患者であっても脳の病理解剖で水俣病病変があること、また、胎児性水俣病の存在、さらに認定患者の家族が非定型的な様々な神経症状(正に慢性水俣病⇔新潟においてはわざわざ遅発性水俣病と命名←本来の中毒学である「曝露レベルが中毒閾値を超えることで発症する=中毒する」ではなく、中毒閾値を超えても発症せずに時が1~5年経過発症する形態;昭電鹿瀬工場でのアセトアルデヒド生産中止・65.1.10後、73年まで新潟水俣病は発生している;工場廃液説を正当化するための詭弁的命名を持っていることなどを検知するに至っています。水俣病について様々な知見が得られていることを知った熊本県は、「現時点の水俣病の姿を明らかにするための研究」に対し委託要請しました。正に、武内忠男教授(病理学)1を班長とする熊本大第二次水俣病研究班(10年後の水俣病研究班)が1971年3月に発足しました。1タケウチタダオ;水俣病がメチル水銀中毒症であることを最初に報告した研究者。

研究班は水俣病の現状を知るために悉皆調査としての水俣病検診を計画しました。対象地として1)水銀濃厚汚染地区として水俣市湯堂・出月・月浦地区(304世帯,男520人:女599人)、2)水銀汚染が少ない地区として、水俣市と不知火海を挟んで対岸の天草郡御所浦町嵐口地区(459世帯,902人:969人)、そして3)水銀非汚染の対照地区として不知火海に対面していない天草郡有明町赤崎・須子・大浦地区(278世帯,570人:610人)を選び、合わせて1041世帯4170人の住民検診を実施しました。水俣市3地区 304世帯中の男520人は有明町3地区278世帯中の男570人よりも有意に少数です(p=0.043, 1方向のフィッシャー直接確率)。水俣市3地区の男性に水俣病中毒死が多かったことを間接的に説明している可能性はあるでしょう。

初年度(1971年度)は、アンケート(質問票)と一般検診から水俣市;315人/1119人(28.2%),御所浦町;135人/1871人(7.2%),および有明町;29人/1180人(2.5%)が要精密者(スクリーニングにおける陽性者)としてふるい分けられました。検診参加者総数に対する要精密者の分布割合は、水俣市>御所浦町(p<0.001)であり、御所浦町>有明町(p<0.001)です。各3地区の住民の魚食習慣(魚食量/回・魚食頻度/週)に極端な差がなく、一般的な沿岸地域の魚食習慣に収束するのであれば、生態系におけるメチル水銀汚染レベルは、水俣市>>御所浦町>>有明町であったとことが期待されます。しかし、有明町のメチル水銀汚染レベルが3地区で最低であったとしても、それなりの数の要精密者を検出したのですから、水銀非汚染地区ではないと認識すべきだったでしょう。そして、本来の疫学研究(記述疫学・チッソのメチル水銀が何処まで・どのくらい拡散したかの調査)に舵を切ればそれなりの疫学調査になったと思います。例えば、チッソからの距離が御所浦町より遠く、有明町より近い大矢野町(大矢野島 or 維和島;宇土半島三角と上天草島と隣り合う島)を加え、アンケートと一般検診(一般検診と後述します)を実施すれば、要精密者の分布割合を得ることができたでしょう。そのことでチッソの工場廃液由来のメチル水銀の拡散状況として距離に依存した地理分布が得られることが期待されます。

得られる地理分布が、①水俣市>>御所浦町>大矢野町≧有明町のメチル水銀汚染状況であれば、チッソの工場廃液が有明町まで拡散したとする可能性は否定できません。それどころか、当時の医学者の主張としての「メチル水銀は食物連鎖によって魚介類で高濃度に濃縮される」を錦の御旗に、チッソから40~50 km離れた有明町の魚介類が、多少とも工場廃液由来のメチル水銀によって汚染された証拠と唱えることでしょう。もちろん、本来の証明は定性としての「食物連鎖」ではなく、定量としての「濃縮率」であるべきです。①の汚染状況こそ「食物連鎖」もまた汚染源からの距離に依存している、すなわち、生態系のメチル水銀レベルが、水俣湾内>>御所浦町地先>大矢野町地先≧有明町地先であることを示唆しています。「食物連鎖」によって魚介類にメチル水銀が闇雲に濃縮されるという「定性」的思考は、今流行の「ご飯論法」の先駆けのように思います。

しかし、地理分布はむしろ ②水俣市>>御所浦町>>or>大矢野町≦or<有明町が得られるのではないかと予想します。この場合、有明町のメチル水銀汚染源がチッソの工場廃液とは独立的に存在しているものがあることになります。それでも、②が得られても、当時の研究者は「公害」として調査を進めたでしょうから、余計に混乱したのではないかと思います。大矢野町を追加せずに調査を続けた研究班の疫学調査による情報からは、正に「第三の水俣病の疑い」に到達するより仕方なかったのでしょう。不思議なことに、いつの間にか「食物連鎖説」の主張は消えています。チッソの工場廃液のメチル水銀が汚染源とは主張していません。確かに、有明町を非汚染地区としての対照として調査したことと整合しています。

一般に、公害問題が起きた時、多くの場合「定性」が幅を利かせます。鹿児島湾のメチル水銀汚染魚の「桜島海底火山説」は「定性」的説明に終始しました。火山ガスから放出される水銀は無機水銀ですが、それをメチル水銀汚染源と報告しているのが「海底火山説」です。確かに自然界では無機水銀がメチル化されメチル水銀が生成します。無機水銀のメチル化は「定性的な」反応です。しかし、「火山説」を言い放つ研究者が(定量的に)そのメチル化率を提示した・することはありません。

それでも、武内研究班長は、後の国会(71年6月6日、第71回衆議院、公害対策並びに環境保全特別委員会)の参考人として、「フェニル水銀系農薬にメチル水銀が含まれていることから、日本で一番多く使われたフェニル水銀系農薬の散布によってメチル水銀が出た可能性がある」と述べています。「一番多く使われた」と半定量的に論じているようにも思います。しかし、不知火海への農薬水銀の影響を棚上げして論じたのであれば、中身は「定性」的論述に止まっています。

さて、次年度(72年度)には、総合判定前の神経科・精神科の精密検診(総合判定前検診と後述)、続いて総合判定のための各科の精密検診(総合検診と後述)が行われました。神経科・精神科検診では、水俣市(受診者245人,水俣病だろう191人,水俣病の疑い20人,保留20人),御所浦町(134人,25人,34人,30人),および有明町(26人,8人,2人,9人)、と診断しました。総合判定前検診の受診者を一般検診によるスクリーニング検査における陽性者)とし、「水俣病だろう」という判定を「患者」とした陽性適中率は、水俣市>>御所浦町ですが(191/245=78.0%:25/134=18.7%,p<0.001)、一方で、御所浦町≦有明町(25/134:8/26=30.8%,p=0.273)です。ただし、有明町の「水俣病だろう」8人の内訳は、5人の「定型型水俣病と区別できない」と3人の「一応水俣病と同等とみられる」であり、「水俣病だろう」を「定型型水俣病と区別できない」に限定すれば、25/134:5/26=19.2%,p=0.955であり、御所浦町≒有明町と考えられると思います。

各対象地区の魚食量を聞き取っていませんが、水俣市の陽性適中率が高いのはそれを無視してもメチル水銀の濃厚汚染地区という要因で説明できるでしょう。御所浦町≒有明町間の陽性適中率はほぼ同じレベルです。両地区のメチル水銀汚染レベルが同等と解釈するには、魚食習慣(魚食量/回×魚食頻度/週)を調整する必要があります。それでも、一般検診における要精密者率(ある一定の条件下;一般的な沿岸地域の魚食習慣が普遍的とすれば)からメチル水銀汚染レベルは御所浦町>>有明町と解釈できそうです。したがって、両地区で同等の陽性適中率は、両地区での研究班の総合判定前検診における検診精度に偏りがなかったことが示唆されます。研究班が有明町の「水俣病だろう」を「第三の水俣病」と記述したことは、検診精度に偏りがないことを背景とすれば、当然の成り行きだったと推察できます。

総合検診では水俣市(受診者195人,水俣病だろう150人,水俣病の疑い20人,保留24人),御所浦町(39人,16人,8人,9人),および有明町(23人,8人,2人,9人)です。総合判定前検診の結果(「水俣病だろう」+「水俣病の疑い」+「保留」)をスクリーニング対象者とすれば、水俣市231人、御所浦町89人、および有明町19人です。総合検診受診者の内訳は、水俣市ではほぼ「水俣病だろう=191人」の195人、御所浦町では「水俣病だろう=25人」に「水俣病の疑い=34人」の一部を加えた39人ですが、有明町では、総合判定前検診者がそのまま対象者だったようです。住民の意思による受診であれば問題ありませんが、研究班が受診者を主導した可能性を否定できません。したがって、3地区の生態系のメチル水銀レベルを検討する疫学研究として総合判定前検診はそれなりに採用できますが、総合検診は問題ありと思います。もちろん総合検診自体の意義は生かされるべきだと思います。

総合検診で水俣市の「水俣病だろう」とされた150人中81人は73年3月末までに水俣病と認定されています。しかし、水俣市における「水俣病だろう」という総合判定による水俣病認定率の54%(81/150)を御所浦町および有明町に当てはめることは適切ではないでしょう。一般検診および総合判定前検診から、生態系のメチル水銀レベルが水俣市≫御所浦町≫or>有明町であると示唆されています。汚染レベルの比較としての疫学調査は成立していると思います。「水俣病だろう」の住民の魚食量(1食当りの量×週当りの魚食頻度)が聞き取られていません。各3地区の「水俣病だろう」と診断された住民の期待される魚食量は水俣市<<御所浦町≦有明町です。水俣市住民が御所浦町や有明町の「水俣病だろう」と診断された住民並みの魚食量があれば、既に急性・亜急性の水俣病を発症していたことが期待されます。

研究班は一連の調査・研究によって有明町住民からハンターラッセル症候群がそろう典型的水俣病と全く区別できない5人、一応水俣病と同様の症状を示した3人の8人(「水俣病だろう」)、および水俣病の疑いとされた2人の疑わしい患者(「水俣病の疑い」)、さらに詳細な検査が必要な9人(「保留」)を検出しました。そこで研究班は熊本県(知事)への報告書「10年後の水俣病に関する疫学的臨床医学的ならびに病理学的研究」に『有明地区の患者を有機水銀中毒症とみうるとすれば、過去の発症とみうるとしても、これは第二の新潟水俣病に次いで、第三の水俣病ということになり、その意義は重大であるので、今後、この問題は解決されねばならない』と記述しました。何故、公文書が事前に漏れたのでしょう。朝日新聞の取材力が抜群だったのでしょうか…!!?

ところで、全国的な「有明海第三水俣病問題」が起る1年2か月前、1972年3月に地元(有明町)では既に水俣病騒動が起きていました。「有明町にも29人(上述の一般検診の陽性者)の水俣病類似患者」との記事が掲載されたようです(これが朝日新聞の記事であれば上述の公文書の事前漏れは必然ということになります→正に、スクープとして公表前に報道した)。有明町は「比較対照地区だというので協力したのに、何ということをしてくれたのだ」との熊本大に釈明を求めました。熊本大はスタッフを派遣し「水俣病と決まったわけではない。結論はくわしい調査をしてからでないとわかりません」と弁明したようです。熊本大のスタッフが一般検診が「水俣病検出」のスクリーニングであることを十分に認識しておれば、当たり障りのない弁明では済まなかったでしょう。翌年の報告書「精密検診と疫学的臨床医学的ならびに病理学的研究」の結論は「第三水俣病の疑い」でした。比較対照地区として適当でなかったことへの釈明は為されていません。また、有明町住民の「第三水俣病の疑い」を発生に関連する諸々の要因について何も言及していません。とくに有明町住民が食した魚介類のメチル水銀濃度を測定しておらず、その理由が全く理解できません。研究班が魚介類のメチル水銀濃度を測定しておれば、後々の「シロ・クロ」闘争における相当な証拠になったはずです。魚介類のメチル水銀濃度が高ければメチル水銀中毒の可能性は高いでしょう。それらが低くとも過去のメチル水銀汚染と指摘すればメチル水銀中毒の可能性は否定できません。

一方、政府(環境庁)は第三水俣病問題を受け、水銀使用工場のある10県9海域における魚介類の水銀測定が行われました。水俣湾と徳山湾(第四水俣病)はメチル水銀汚染魚が検出されたことによって漁獲等の自主規制が行われました。9海域に有明海と八代海(不知火海)が含まれていましたが、汚染魚は検出されていません。その後、不知火海に浮かぶ御所浦町住民の「水俣病だろう」の者から水俣病認定者が出ています。有明海に面して浮かぶ天草上島の有明町住民の「水俣病だろう」は「シロ」判定です。続いて、直江津地先(関川第五水俣病)と鹿児島湾奥(第六水俣病)でメチル水銀汚染魚が検出されました。

第三以下の水俣病問題にはメチル水銀中毒者はいなかったことになっています。このようにまとめてみると、ある意図が働いたことは明らかです。しかし、疫学的な思考をすれば(共通点を拾いだして検討する→メチル水銀汚染という偏りが発生した理由の検索)、第三以下の水俣病問題は、正しくメチル水銀汚染問題であったと指摘できます。水銀使用工場の無い鹿児島湾奥が、桜島の海底火山活動によってメチル水銀に汚染されたというシナリオも、個別の調査・研究で作られました。個別の調査・研究では、共通要因を検討せずに進められます。

結局のところ、研究班の疫学的研究で示せたのは、一般検診というスクリーニングにおける要精密者(陽性者)の検出頻度分布、および総合判定前検診における「水俣病だろう」の者の検出頻度分布の3地区の比較に止まっています。しかし、有明町住民で検出された「水俣病だろう」の症状が、水俣市民および御所浦町民と共通していたことは、二つの検診の結果から明らかです。有明町民の「水俣病だろう」症状だけを取り上げ、その一つ一つの症状について変形性脊椎症糖尿病老化現象などでも起こるとしてメチル水銀中毒とは認められない、と「シロ」判定しました。水俣市民および御所浦町民の水俣病認定者を単独で取り上げれば、有明町民の場合と同様に「シロ」判定できそうです。研究班がこの疫学的研究共通項の比較;要精密者分布・「水俣病だろう」分布)を持ち出せば、こうもやすやすと「シロ」判定に持ち込まれることはなかったでしょう。

一方、メチル水銀汚染源の検索でも個別の調査・研究で対応しました。

73年5月の第三水俣病問題の報道当初は有明町から東に40 km離れた熊本県宇土市に在ったアセトアルデヒド生産工場の工場廃液がメチル水銀汚染源と疑われました。また、この頃、研究班長・武内は、第三水俣病問題騒ぎが起こった直後に、宇土市民の胎児性水俣病と区別できない病変解剖例2例、三角町民の老人の水俣病病変解剖例があることを述べています。工場廃液による「公害」の可能性を問うつもりだったのかもしれません。しかし、「公害」は長期連続汚染です。少数の発症、それも胎児性だけの発症では連続性を説明できません。また、既に工場生産は65年4月に中止されていたこともあって、汚染源と特定されることはありませんでした。武内は病理学者として発言しています。しかし、「公害」と主張するための疫学思考が為されていません。それらの「胎児性水俣病患者」の母の魚食習慣・臍帯の水銀濃度・家族集積性などの何れの記録もありません。

公害」説は、続いて有明町から北東に60 km離れた大牟田苛性ソーダ生産工場を疑いました。引き金は、73年6月には大牟田住民兄弟(58歳・53歳)に水俣病症状があると報道されたことにあります(「水俣病症状の患者 大牟田でも見つかる 河口の魚類を常食」朝日新聞,73.6.8)。子どもの頃から父の釣果を常食し、s40(1965)年春頃に指先の変形など体の変調に気付いていた兄は、自ら大牟田市公害対策室に出向き「水俣病ではないか。調べて欲しい」と訴え、また、弟も父がとったを多食し、10年ほど前から右手がふるえ、杯もうまく運べず、視野が次第に狭くなっているが、開業医は神経痛という、との記事です。

時を置かず、熊本大研究班の原田助教授がこの兄に多くの水俣病症状があることを確認しました。その後、九州大(黒岩教授のグループ)で20日間に亘って兄への水俣病検診が行われ、「水俣病でない」「他の病気で積極的に説明ができる(患者の病名は本人のプライバシーに関することで言えない)」と結論(診断?)されました。本来、症状が弟より兄の方がはっきりしていたとしても、兄弟同時に診察すべきだと思います。5歳離れた弟と同程度の症状を「老化現象」と診断しづらくなることを避けたのでしょう。「水俣病」という共通性があっても、症状の有無・強弱は個別的です。「水俣病」を否定するには個別検診に限るようです。

ここで、3地域別の「水俣病」のa;認定者数と手袋靴下型感覚障害を呈する水俣病特措法におけるb;一時金受領者数をa/b(認定率a/(a+b)%)として示します。A;1787/19306(8.47%),B;704/1811(27.99%),C;493/11127(4.24%)で、A;熊本県、B;新潟県、C;鹿児島県です。その地域の生態系メチル水銀レベルが高ければ、a+bおよび認定率高いことが期待されます。a+bが熊本>鹿児島>>新潟であるにも関わらず、認定率は新潟>>熊本>鹿児島で、新潟県≒3.3×熊本県です。水俣病認定者の症状の有無・強弱3地域(県)明らかに違っていると考えざるを得ません。このように行政の都合によって「水俣病の症状」が変動するのですから、個々の「水俣病症状」はどのようにも診断できるといっても過言でないようです。「疫学」の基本は、「偏りの要因の検索」です。兄弟であって姉妹ではありませんが家族集積性はありそうです。河口の魚類・貝を多食しています。熊本大研究班が71年に実施したアンケート調査(および一般検診)を、大牟田市民を対象として実施しようとは思わなかったのでしょうか。正しい疫学調査の道は閉ざされていたようです。

1960~62年の有明海および不知火海の沿岸住民における頭髪総水銀濃度が、熊本衛生研究所の松島技官によって測定されています(青本,pp738;一部は鹿児島県衛生研究所のデータが掲載されています)。頭髪は1 cm/月位伸びます。通常、長さを出来るだけ揃えるために、頭髪は右耳側(側頭)下部の根元から採取します。それでも頭髪試料の長さは女>男になります。経験測ですが、女性は5~10 cm、男性は3~5 cmが平均的な頭髪試料の長さです。したがって、その長さ(cm)月分だけ過去のメチル水銀曝露レベルの指標であることを認識する必要があります。1960年の頭髪試料は、1959年の情報をそれなりに伝えていることになります。

頭髪総水銀濃度は、A; 10 ppm未満,B; 10~50 ppm未満,およびC; 50 ppm以上の3区分の分布が掲載されています。統計に堪える例数が測定されている市町村の各3区分数を測定年別に列記します。1960年;天草郡龍ヶ岳町(A;24人,B;57人,C;6人),同郡御所浦町(251,747,162),水俣市(38,100,68),芦北郡津奈木町(12,61,29),芦北町(1,33,30),田浦町(6,15,12)。C区分をメチル水銀高濃度曝露群(高曝露群と後述)とします。高曝露群分布は、御所浦町>龍ヶ岳町(p=0.063),水俣市≫御所浦町(p<0.001),水俣市≧津奈木町(p=0.416)<芦北町(p=0.016)≧田浦町(p=0.322),水俣市<芦北町(p=0.044)です。高曝露群分布が高い順(生態系メチル水銀レベルの高い順と考えられる)に並べると、芦北町≧田浦町≒水俣市≧津奈木≫御所浦町>龍ヶ岳町であると示唆されます。1959~60年の芦北町≧田浦町≒水俣市≧津奈木町は、メチル水銀負荷源が工場廃液単独では説明できない生態系メチル水銀レベルの濃度順です。58年9月から59年10月まで工場廃液は八幡プール群(水俣市八幡町)から直接的に不知火海に流出していました。その時期を反映した頭髪総水銀濃度分布であったなら、水俣市≧津奈木町は工場廃液単独で説明できます。しかし水俣市からの距離が津奈木町よりも遠い芦北町および田浦町の高曝露群分布が津奈木町のそれらより高いことをメチル水銀負荷源が工場廃液単独であると説明することは困難です。

1961年;鹿児島県阿久根市(21,9,3),出水郡東町(11,39,25),出水市米ノ津(38,264,143),出水市・高尾野町(7,9,5),津奈木町・湯浦町(6,45,6),御所浦町(130,414,134),八代市日奈久・八代大島(12,24,0),熊本市(65,57,2),長洲町(35,24,0)。高曝露群分布は、東町≒出水市米ノ津(p=0.837)≫御所浦町(p<0.001)>津奈木・湯浦町(p=0.088)≒阿久根市(p=0.827)≫熊本市(p=0.030)=長洲町=日奈久・大島の順です。また、出水市・高尾野町は比較するには少数例です。出水市米ノ津との隣接地区であり、3区分分布もよく似ているので両者を合わせた出水市(45,271,148)として比較しても良いかもしれません。この出水市の高曝露群分布を出水市米ノ津のそれらと入れ替えても結果はほぼ同じです。1961年に水俣市のデータが欠けています。しかし、潮の流れの基本は水俣湾→津奈木(北東)です。メチル水銀が出水米ノ津(出水市)から長島(東町)に沿って獅子島(鹿児島県)→御所浦島という経路で移動したとすれば、説明可能な高曝露群分布の高低と考えられます。一方、メチル水銀負荷源としての工場廃液の寄与度は津奈木・湯浦町≫阿久根市と考えられますが、高曝露群分布は津奈木・湯浦町≒阿久根市です。阿久根市の漁場が不知火海であったのであれば、東町≒阿久根市が予想されますが、実際は、東町≫阿久根市です。阿久根市の漁場は東シナ海側にあったでしょうから、メチル水銀負荷源は工場廃液から独立していたと予想します。他方、阿久根市≫熊本市=長洲町を以て生態系メチル水銀レベルが東シナ海≫有明海とするのは無謀でしょう。ただし、この時期、出水市米ノ津川で出水製紙、川内川で中越パルプが操業中でした。製紙業で水銀化合物が防カビ剤として使われたことは無視できないと考えています。60~61年の有明海(熊本市・長洲町)のメチル水銀レベルが、阿久根市よりも低いものの、不知火海の北東部の八代市日奈久・大島と同等だったようです。

1962年;鹿児島県出水郡東町(52,40,5),出水市米ノ津(179,110,13),水俣市(20,54,4),御所浦町(41,89,29),飽託郡天明村川口・現熊本市南区(87,0,0),熊本市(154,17,2),長洲町(63,18,1)。高曝露群分布では、御所浦町≫出水市米ノ津(p<0.001)≒東町≒水俣市>長洲町(p=0.057)≒熊本市(p=0.965)≫天明村(p<0.001)の順に高曝露群分布が小さく(メチル水銀レベルが低く)なっています。一方、A区分をメチル水銀低濃度曝露群(低曝露群と後述)とした低曝露群分布では、御所浦町≒水俣市≫東町(p=0.001)≒出水市米ノ津≫長洲町(p=0.004)≫熊本市(p=0.011)≫天明村(p=0.001)の順に低曝露群分布が大きく(メチル水銀レベルが低く)なっています。61~62年の有明海のメチル水銀レベルは、不知火海よりかなり低かったと考えられます。ただし、魚食量が相当に多い有明海の漁民であれば、メチル水銀曝露レベル不知火海沿岸住民のそれらと同等であった可能性が高いと考えられます。

1960年から1962年まで3年間連続で頭髪総水銀濃度の比較が出来るのは御所浦町だけです。高曝露群分布では、多い順に61年≒62年(p=0.151)≒60年(p=0.662)ですが、61年≫60年(p=0.001)です。一方、低曝露群分布において、少ない順に61年≒62年(p=0.209)≒60年(p=0.237)ですが、61年>62年(p=0.063)です。したがって、御所浦町の生態系メチル水銀レベルは61年に、62年および61年より高かったことが示唆されます。61年の御所浦町のそれらは、東町および出水市米ノ津より有意に低く、61年の出水沖不知火海が濃厚なメチル水銀の負荷があったことが示唆されます。61年の高曝露群分布は東町がわずかに出水市米ノ津より多いですが(p=0.837)、低曝露群分布は出水市米ノ津が東町より少ない傾向にあります(p=0.093)。両町の漁場はいずれも出水沖の不知火海と考えられるので、わずかな魚食習慣の違い、例えば、魚食量がほぼ一致していても魚食頻度or一食当たりの魚食量に違いがあるのかもしれません。

熊本県衛生研究所の松島技官の膨大な数の頭髪試料の分析からは、1960年代前々半の有明海の生態系メチル水銀レベルは不知火海より低かっただろうといえそうです。しかし、それから10年後の1970年代の前々半まで有明海のそれらが不知火海のそれらより低かったか否かは分かりません。その後の10年の間の66年6月にチッソは完全循環式排水システムを運用しました。工場廃液由来のメチル水銀負荷はほとんど無くなったでしょう。しかし、酢酸フェニル水銀系農薬(セレサン石灰)の使用量は減ったでしょうが、稲イモチ病対策での使用は続いていました。有明海第三水俣病問題で「水俣病だろう」と診断された住民は、阿賀野川中上流域住民の水俣病患者と同等レベル阿賀野川流域住民であれば水俣病と認定されるレベル)の患者だったのではないかと考えられます。有明海第三水俣病問題の「水俣病だろう」の住民は、男7人、女3人のいずれも漁家・半農の漁家です。手袋靴下型感覚障害」の症状を呈した4人の鹿児島湾奥漁師の頭髪総水銀濃度は40 ppmを超えていました。彼らが示した「手袋靴下型感覚障害」は変形性脊椎症が原因だと診断されました。有明町の10人の頭髪総水銀濃度の数値は見つかりませんでしたが、低かったと国会で説明されています(参考人発言)。

「水俣病だろう」を決定づけるものではありませんが、松島技官が実施した頭髪総水銀濃度の調査が、改めて1973年に実施されておれば、1972~73年の不知火海・有明海住民のメチル水銀曝露レベルが比較できたでしょう。「水俣病だろう」は過去の発症と思われます。1972~73年のメチル水銀曝露レベルで説明できないことを知らしめるため、また、「水俣病だろう」の人々のレベルが他の住民よりも高いことだけでも知るべきだったと思います。疫学的データの限定された調査では、真実の主張が簡単に覆されることが示された「有明海第三水俣病問題」だったという虚しさが残ります。

公開日 2018年12月2日作成者 tetuando