我が国におけるメチル水銀汚染における汚染源の中心に稲イモチ病対策に水銀量として6800㌧も使用された「セレサン石灰」をはじめとする酢酸フェニル水銀系農薬があると主張してきました。最終章では、これまで正しく「公害」であると世界中に報告されている熊本水俣病と水銀系農薬の関わりに気付いた背景などをお伝えしたいと思います。

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1956年(昭和31年)5月1日、水俣市月浦(ツキノウラ)地区読谷(ヨミタン)の5歳4か月の姉と2歳11か月の妹の幼い姉妹を含む4人の原因不明の脳(精神・神経)症状を伴った患者の入院が、新日本窒素肥料(社名→チッソ→JNC)水俣工場附属病院から水俣保健所に届出がありました。それ以前から地元では、大人に脳症状を伴ったヨイヨイ病(患者の様子・症状が踊っているようであったことから、そう呼ばれた/ネコの症状に対しても猫踊り病と呼ばれることもあった)・つきのうら病(月浦地区の住民に特異的に発症したように伝えられる)と呼ばれる奇病がありました。しかし、それらは、まさに大人の精神病ととらえていたのです。水俣保健所に届けたきっかけは、幼い子供に(精神病というべき)脳症状がみられたことにあります。精神病は精神(人のこころ)に邪気が入り込むことによって発症すると考えられてきました。罹るはずはない無邪気な子どもが罹ったことを深刻に受け止めたのが附属病院の細川一(ハジメ)病院長だったということです。

この1956年5月1日は水俣病の公式確認日とされています。2006年からは5月1日を公害としての水俣病を忘れないために「水俣病啓発の日」とし、毎年、慰霊祭などが行われています。

その後の調査によって、5歳4か月の姉(三女)と2歳11か月の妹(四女)の発症前に、すでに1953年12月の5歳11か月の女児の初発を含む10歳以下の女児8(前出の姉妹を加えると10)人、男児10人の小児水俣病患者、1954年5月の39歳男性の初発を含む男性29人、女性16人の急性水俣病患者、および女児3人、男児4人の胎児性水俣病患者が1956年12月までに発生したことが報告されています。これら小児および成人の急性患者は全て水俣湾沿岸住民であり、水俣湾外の出水市や津奈木町はもちろんのこと、水俣湾外の水俣市民からの急性患者の発生は記録されていません。この時、急性患者の性比が、魚食量の性比に由来しているのではないかと考えました。小児の魚食量には性差がほとんどないと考えられます。男児・女児で同等の魚食量(男児≒女児)が、小児水俣病患者発生数における男児10人・女児10人をもたらしたと考えられます。一方、成人の魚食量は 男性> or ≧ 女性と考えられます。しかし、このようにわずかな魚食量の性差でありながら、急性患者発生数が男性29人:女性16人≒2:1の分布です。メチル水銀暴露量は魚食量×彼らが摂食した魚介類のメチル水銀濃度です。水俣湾の魚介類のメチル水銀濃度が極めて高かったことが想起されます。

この急性および胎児性水俣病患者の発生地と発生年月の記録(報告)は1979年発刊の「青本」と呼ばれる「水俣病-20年の研究と今日の課題,有馬澄雄編,青林舎,1979」に掲載されています。しかし、この記録を読み解く上で、1956年12月までの急性患者が全て水俣湾沿岸住民であったことに気付いたのは最近のことで、気付くのにほぼ40年という時間を要しました()。これに気付いておれば、少なくとも現役時代に「我が国におけるメチル水銀汚染」をまとめることが出来たのではないかと思います。もちろん、熊本水俣病にも水銀系農薬の散布が関わっていることは、早くから予想していました。例数は少ないのですが、「青本」に掲載の臍帯中メチル水銀濃度の記録から4月~6月生まれのそれらが最小の季節差があることは確認出来ていました。この季節差を見出した時は、世間の常識がひっくり返ると思ったものです。()胎児性患者の初発時期は水俣湾内・湾外(出水/芦北)で、ほぼ同じです。すなわち、母(妊婦)のメチル水銀暴露量が同じという事実にしっかり惑わされていました。メチル水銀暴露量が魚食量×摂食した魚介類のメチル水銀濃度であることを、ふっ飛ばしていました。

しかし、「工場廃液説」の牙城はそんな季節差(新説ならまだしも珍説のたぐい)で崩れるものではありません。4月~6月に最小の季節差を水銀系農薬散布が原因で発生したと得意げに挙げても、冷静に「7月~9月が最高か」と問い返されます。「工場廃液説」が研究者のみならず世間一般(教科書も)に支持された「公害の原点としての熊本水俣病」の標語なので、「冷静に」に対応できるようです。実際、稲イモチ病対策の水銀系農薬の散布は7月・8月なので、「7月~9月が最高」が疫学における因果関係の評価では、「関連の特異性」を評価する上の真の特異性であるべきです。「散布時に特異的汚染される」のであって、「散布時直前は特異的に汚染されない」とは言えません。統計的結果として「散布時前に汚染レベルが低かった」ことを指摘しただけのことです。

「青本」掲載の臍帯中メチル水銀濃度の例数は57です。出生地は水俣地方住民と記されています。実は、やっと手に入れた季節差は地理分布を検討していなかったのです。時間・地理分布の無い疫学は、捏造ではありませんが、真実を導きだす保障が無いだけでなく、偶然得られた結果を蓋然性がある事象と判断した場合(4月~6月は7月・8月の水銀系農薬散布の直前なので汚染レベルが最も低い⇔一見、蓋然性は有りそう)、分析者(&o)は沼にはまってしまいます。正に、独り善がり説として「農薬説」を展開していたことになります。当時は、地理分布を検討していないことに気付いてなかったのです。「青本」の水俣地方住民という表のタイトルを勝手に水俣湾沿岸住民と読み取ることのリスク(危険性・バイアスというより誤り・エラー)を知らなかったということです。

2009年と2010年に続けて二人の水俣病研究者による原田正純先生の集めた臍帯のメチル水銀濃度についての論文が科学雑誌に掲載されました。二人の研究者のうちの一人は、原田先生と共同研究として投稿していましたが、もう一人は、原田先生の臍帯中メチル水銀濃度のデータに自分で集めたそれらのデータを加えての投稿でした。そこで、&oは原田先生に原田先生のデータを使わせてもらえないかと手紙を書きました。すでに原田先生は病気療養中でしたが、直接電話をいただきました。「学園大の水俣学(紀要)にデータは全て載せてあるから自由に使ってよい」との言葉に、熊本学園大を訪ね、用意された紀要(水俣学研究,第1巻,第1号,2009)を受け取りました。臍帯中メチル水銀濃度の例数は299です。

掲載されたデータは、メチル水銀濃度・誕生日・出生地・分析者です。やっと時間分布と地理分布が検索できるデータに出会ったことになります。前出の2つの論文では、ともに時間・地理分布に関わる論旨が無いわけではありません。両論文ともに地理分布を、&oと同様に地域を出水・水俣・芦北の3地区に分類して検討しています。しかし、臍帯中メチル水銀濃度が高いほうから出水>水俣>芦北という結果が得られている理由について吟味が不足・欠落しています。後者の研究論文では、水俣が出水より低い理由として水俣で多くの死産があったとしています。部分的には正しい考察です。単に地理分布を扱っています。時間分布が組み合わさっていないのです。水俣で死産が多発したのは1955年~1959年の5年間に限られた動向です。また、出水、芦北における死産発生の動向は調査されていません。水俣市民の死産の多発は熊本県県民のそれらとの比較でしたが、芦北さらに出水との比較は為されていません。実際、チッソが工場廃液の排水を循環式(理論上、工場廃液が排出されない)にして以降の臍帯中メチル水銀濃度では、出水>芦北>水俣となっています。それなりに高名な研究者が、最上級とは言えないまでもそれなりのレベルの科学誌の査読を見事にかわし、掲載されています。

しかし、科学論文の基本は、疑問を論理的に解き明かした足跡を記載することです。論文に書かれたことが真実であるか否かについての吟味は、時の研究者の役割と考えています。正に今、先人が「公害」「自然汚染(水銀鉱山/火山)」とした「我が国におけるメチル水銀汚染」をひとりの研究者として様々な観点から見直しています。これまでの記述の全てが真実とはいえないでしょう。しかし、少なくとも真実に近づいていると思います。

2つの論文は原田データを解析したものです。両者ともに臍帯中メチル水銀濃度(対数値)とアセトアルデヒド年間生産量(千㌧)とで相関係数を求めています。相関係数は0.14と非常に弱いものの有意の正相関関係(p=0.039)があります。これは例数が227と大きいことで得られたのでしょう。アセトアルデヒド年間生産量の棒グラフと経年的な各臍帯中メチル水銀濃度を点描すると、高いレベルの臍帯中メチル水銀の動向とアセトアルデヒド年間生産量の棒グラフの先端(あるいは頂点だけの折れ線グラフ)とが妙に一致します。この相関の算出に使用した数値は個々の臍帯中メチル水銀濃度とアセトアルデヒド年間生産量です。例えば、1955年の10例の臍帯中メチル水銀濃度(最小値0.035~最大値2.258, ppm)に対して、アセトアルデヒド年間生産量は10.633(千㌧)というひとつの数値が対応しています。このような数値の取り扱い(時間分布に限定してもかたや誕生日、こなた年間)は間違っていますが、2つの科学誌に査読を受けた上で掲載されています。そんな些細なことが問題の本質ではありません。実際に地理分布を考慮してアセトアルデヒド工場廃液が流された水俣のデータ(例数64)だけで同様の相関係数を求めると-0.124(p=0.326)となんと負の相関係数が得られます。この実体は、二つの論文には載っていません。地理分布を導入せず3地域全ての臍帯中メチル水銀濃度とアセトアルデヒド年間生産量との間には有意の正相関関係があり、本命の水俣だけでは(有意ではないが)負相関関係があるというのは事実ですが、説明出来ないので取り扱わなかったのでしょう。実際には、出水および芦北の臍帯メチル水銀濃度が水銀系農薬の使用量()と正相関していたことの寄与によって得られた地理分布を考慮しない時間分布の結果であったことを統計結果(重回帰分析)で確認しています。()アセトアルデヒド生産量および水銀系農薬の使用量の経年動向が良く似ている。

これが水俣病研究の実態です。これまでの水俣病(メチル水銀汚染)の環境疫学的研究は、予断した原因(この場合、アセトアルデヒド工場廃液中のメチル水銀がメチル水銀汚染源である)を確かであると説明するのが中心でした。上記のように間違った比較で得られたアセトアルデヒド年間生産量と臍帯中メチル水銀濃度の有意の正相関関係を以って、アセトアルデヒド生産に由来する工場廃液中のメチル水銀が原因であると論じています。事実、工場廃液中のメチル水銀は水俣病の原因です。しかし、誰も工場廃液を飲食していません。環境疫学では住民の魚食量と魚食頻度、住民が摂食した魚介類のメチル水銀濃度(*1)を基礎データとして水俣病患者発生の時間・地理分布を検討するのが王道だと思います。しかし、原田データには児の母の魚食量・魚食頻度は聞き取られていません(多分に、魚介類の多食者と決め込んでいます;新潟水俣病の調査の時は、川魚の摂食量を-,±,+,++の4段階で聞いています→海産魚を無視している←汚染源が工場廃液と決めている)。多くの疫学者は頭髪や臍帯のメチル水銀濃度がメチル水銀曝露量の指標であるとして魚食量/回・魚食頻度を聞き取りません。メチル水銀曝露量は魚食量×摂食した魚介類のメチル水銀濃度ですが、魚食量が、少量×多頻度=多量×少頻度という同じ曝露量であれば、頭髪や赤血球中の水銀濃度、すなわち蓄積量は後者の方が大きいという結果を得ています。酒の肴として魚を食べるより、お茶(あがり)を飲みながらにぎり寿司の方がメチル水銀の蓄積量が少ないという結果も得ています(メチル水銀の吸収をアルコールが促進し、お茶のタンニン/カテキンが抑制します)。(*1) ;魚介類のメチル水銀濃度が計測されていることはめったにありません。しかし、魚食量/回・魚食頻度が同等である場合に、症状の軽重が明らかであれば、両者が摂食した魚介類のメチル水銀濃度は、症状の軽い者の魚<重い者の魚、と推測出来ます。疫学調査において魚食量/回・魚食頻度を聞き取っておくことの必要性を示していると思います。

1958年9月~1959年10月の14か月間、工場廃液は水俣川河口左岸側の八幡(ハチマン)プールに投入されました。プールというより実体は沈殿池であり、上澄み液は処理されることなく直接不知火海へ流れ出ました。廃液の懸濁物の沈殿による無機水銀の除去効果はかなり有ったようです。実際、八幡プール地先の底土の総水銀濃度は0.37および1.23 ppmと報告されています。同時に報告された百間港のヘドロは2010 ppmでした。

工場廃液のメチル水銀が直接不知火海へ流出し始めて7か月後に水俣湾外の不知火海沿岸住民から急性水俣病が発生しました。1959年3月、4月、6月、7月、および9月にそれぞれ1人ずつの急性水俣病患者(以下、急性患者と記す)が水俣湾外の水俣市民から発生しています。続いて、同年9月と10月に八幡プールから北東に5 km離れた津奈木村からそれぞれ2人ずつの4人、そして9月と11月に、それぞれ八幡プールから北東に10 kmおよび11 km離れた湯浦町と芦北町からそれぞれ1人の急性患者が発生しています。また、1959年6月、8月、および9月にそれぞれ1人の急性患者が八幡プールから南西に11 km離れた出水から発生しています。すなわち、水俣湾外の不知火海沿岸住民から14人の急性患者が発生しました。14人全員が男性であり、6歳男児を除く13人は33歳から67歳の成人であり、11人が漁師です。正に、一食当たりの魚食量が膨大な者への健康影響が顕著であったことを説明しています。それまで急性水俣病が連続発症していた時期の水俣湾沿岸住民の食べた魚のメチル水銀濃度と比べれば、このように八幡プールから直接不知火海へ工場廃液由来のメチル水銀が流出していた時期の水俣湾外の不知火海の魚のメチル水銀濃度の方がかなり低濃度だったことが示唆されます(*2)。6歳8か月の男児は津奈木村住民で10月に発症しています。水俣湾沿岸では5歳11か月の女児が初発患者ですが、この6歳児が不知火海沿岸住民での初発ではなく、14人中13番目の発症です。父親が重症の急性患者(12番目の急性患者)として診断されたとき、家族の診察中に水俣病と診断されています。父親が重症でなければ見逃されていたかもしれません。軽症という記録が残っており、メチル水銀毒性の閾値が低い(感受性が高い)ことによる発症と考えられます。(*2);百間港から水俣湾内に連続流出していた工場廃液に含まれたメチル水銀は、間違いなく水俣湾外の不知火海へ拡がり続けていたでしょうし、そのメチル水銀が食物連鎖を通して魚介類へ生物濃縮されたことも事実でしょう。しかし、その間、水俣湾外の不知火海沿岸住民は、漁師であっても急性水俣病を発症していません。魚介類のメチル水銀濃度を決定づけるのは、食物連鎖を経由した生物濃縮の基点である環境中メチル水銀濃度と言えるでしょう。不知火海の海水量は水俣湾のそれらの400倍超です。したがって、水俣湾の海水中メチル水銀濃度は、不知火海のそれらの400倍超であったと推測されます。水俣湾の魚介類のメチル水銀濃度が濃厚だったのは、水俣湾の海水中メチル水銀濃度が濃厚だったということでしょう。一方、実際に、魚の超多食者である漁師の急性水俣病発生の閾値を超えることがなかったのは、不知火海海水中メチル水銀濃度・魚介類メチル水銀濃度が、水俣湾のそれらと比べてかなり低濃度だったということが考えられます。ただし、急性患者が発生しなかった時期の不知火海沿岸住民から3人(出水2人・芦北1人)の胎児性患者が生まれています。妊婦の魚の超多食者にとって、流産/死産は避けられたものの、結果として胎児性患者の出生をもたらした魚介類のメチル水銀濃度だったということでしょう。胎児のメチル水銀感受性が最も高い(発症の閾値が最も低い・流産/死産の閾値はもっと低いと予想できる)ことを示唆しています。

工場廃液が百間港から水俣湾に流されている間に、メチル水銀は当然のように湾外の不知火海に流出したでしょう。先の研究者は、メチル水銀が食物連鎖を通して高度に生物濃縮されることが、不知火海への工場廃液によるメチル水銀中毒発生、すなわち水俣病が不知火海沿岸住民でも発生したと説明してきました。食物連鎖を通して魚介類にメチル水銀が生物濃縮されるのは事実です。しかし、先の研究者は定性的な説明に終始してきました。高度という言葉に惑わされます。1958年9月から工場廃液は直接不知火海へ流出しました。水俣湾外からの急性患者の初発は7か月後の1959年3月です。7か月の時間のずれを、先の研究者は食物連鎖によって生じたと説明してきました。一方で、急性患者の発生地の北上をカタクチイワシの回遊(北上)とそれらを食餌するタチウオのメチル水銀の濃厚汚染であるとも説明してきました。しかし、カタクチイワシ回遊説は、水俣湾南西の出水市の急性患者の発生時期を説明できません。1959年10月30日をもって工場廃液の八幡プールからの排出は止められました。食物連鎖に7か月の時間のずれがあるのであれば、 湾外への排水が止まってから7か月後の1960年5月まで、(水俣市民を含む)水俣湾外住民からの急性患者の連続発生がなかった理由を食物連鎖の時間のずれと説明するのでしょうか。実際の湾外住民の急性患者の発生は、芦北町住民の1959年11月で終了しました。上記したように芦北海岸は八幡プールから直線距離で北東に11 km離れています。南西に11km離れた出水市での発症は9月で止まっています。出水市の急性患者の発生を「工場廃液単独由来のメチル水銀」の食物連鎖やカタクチイワシの回遊説で説明するのは、まったく科学(海の生態系)を無視した論述と言わざるを得ません。疫学における関連の一致性(「工場廃液単独説」による食物連鎖説もカタクチイワシ回遊説も患者発生の地区毎の時間分布が工場廃液排出の時間分布と余りに異なっている)が得られていないとの反論・批判を受けることが無かったのでしょう。

「工場廃液単独説」では、工場廃液が不知火海へ直接流入していた一時期の1959年2月~10月に水俣湾外の不知火海で発生した魚の大量斃死を説明しきれないと考えています。1958年9月の工場廃液の直接的不知火海への排出から6か月を過ぎてから、1959年2月から3月に水俣地先で911 kg、4月から7月に水俣・津奈木地先で1,101 kg、および7月から10月に湯浦地先・芦北海岸・田浦海岸域で14,971 kgの魚が大量斃死しています。当然のように、工場廃液の直接的不知火海への流出から6か月経過後の魚斃死は食物連鎖に起因した時間のずれで説明しています。不知火海の潮の流れは基本的に対馬海流に依存するので北西へ向います。そんな潮の流れに乗って八幡プールからの工場廃液由来のメチル水銀も北西方向へ移動すると考えられます。一部は水俣川の河川水の流れに乗って天草御所浦方面へも流れます。魚の大量斃死が時間的に北西方向と御所浦方面に移動したことの説明になっています。さらに、これら魚斃死の中心がタチウオの大量斃死であったことから、先の研究者は、カタクチイワシの回遊が工場廃液由来のメチル水銀水塊の移動であるとし、工場廃液が原因と予断してきました。八幡プールからのメチル水銀によって汚染されたカタクチイワシを食餌とするタチウオの大量斃死が、その移動・回遊に伴い発生したと言い放っています。やはり、定性的解釈に止まっています。魚の大量斃死の時間・地理分布はカタクチイワシの回遊に伴って八幡プールから北西に移動するとの定性的説明は間違っていません。しかし、魚の斃死量は芦北海岸で水俣地先のほぼ16倍です。魚の斃死は8月・9月に芦北海岸で、9月・10月に田浦以南海域で発生していますが、水俣地先および水俣・津奈木地先では7月以降発生していません。これに対する先の研究者による説明はありません。平然と持ちだされるカタクチイワシの移動によってメチル水銀の濃厚汚染水塊もまた移動するという説明を世間が受け入れています。食物連鎖による生物濃縮によって(地理分布に依存しない時間のずれが生じると説明しておいて、突然、カタクチイワシの移動に起因して(地理分布に依存する時間のずれと説明し直しています。

それにしても、工場廃液は長い間、百間港から水俣湾内に流されていました。毎年のようにカタクチイワシは水俣湾内を回遊したはずであり、回遊中にカタクチイワシは濃厚なメチル水銀を鰓から取り入れていたでしょう。 とくに、水俣湾沿岸住民から急性患者が連続発生していた1956年~57年の水俣湾内でのカタクチイワシの汚染レベルは、八幡プールからの工場廃液由来のメチル水銀だけで汚染された湾外・不知火海沿岸のカタクチイワシの場合より高かったことが予想できます。にもかかわらず、1956年~57年の湾内で汚染されたカタクチイワシを食餌した湾外(芦北海岸・御所浦地先)のタチウオが斃死したという記録はありません。カタクチイワシのメチル水銀曝露の主体が食物連鎖ではなく鰓経由であったと考えられます。鰓経由のメチル水銀は赤血球に結合するので赤血球の寿命に依存して保持される魚体内のメチル水銀レベルが変わるでしょう。カタクチイワシが水俣湾内から芦北海岸に移動するのに3~4か月を要します。その間に、メチル水銀レベルの低い不知火海(水俣湾外・水俣地先)を回遊したカタクチイワシのそれらは低下したでしょう。とくに、水俣湾内環境のメチル水銀レベルが高かった1956年・57年の水銀系農薬の散布量は、その普及から日が浅いこともあってそこまで大量でなかったことから、水俣湾内で工場廃液のメチル水銀に濃厚曝露されたとしても、芦北海岸への移動の3~4か月の経過中に漸次その濃厚曝露の赤血球が新しい赤血球に取り替わり、赤血球のメチル水銀レベルは低下したでしょうそのようなカタクチイワシが水銀系農薬由来のメチル水銀に加重曝露しても、そのレベルではタチウオの斃死の閾値に達しなかったのではないでしょうか。

一方、八幡プールから津奈木・湯浦へのカタクチイワシの移動には1か月位掛かるでしょう。八幡プール地先で、湾内ほどではないがそれなりのレベルのメチル水銀に曝露されたカタクチイワシが、そのレベルを維持したまま7月・8月の水銀系農薬の散布に由来するメチル水銀(芦北海岸の7月~9月は濃厚レベルだっただろう)によって加重に曝露されたことで、一機にタチウオの斃死の閾値を超え、タチウオが大量に斃死したという構図が描けます。完全な定量的解析には到達できませんが、鰓経由・赤血球・寿命・3か月・1か月のうち、水産生理学者がカタクチイワシの赤血球の寿命を明らかにしてくだされば、相当な知見ではないかと思います。

出水沖でも魚の大量斃死があったようですが、記録がありません。出水沖のメチル水銀汚染に関わる間接的情報として、1959年2月から8月に鹿児島県獅子島で、7月・8月に出水米ノ津で、多数の猫狂死が発生あったようです。2月から8月の獅子島の猫狂死は、カタクチイワシの回遊に起因すると説明できそうです。しかし、2月~6月の出水沖にカタクチイワシが回遊していると思われますが、その2月~6月に出水米ノ津で猫狂死が報告されていません。カタクチイワシの回遊が魚斃死や猫狂死の時間・地理分布の一部を説明できそうですが、すべてを説明することは難しいようです。「工場廃液単独説」の牙城は出水沖の生態系の異常では崩せません。記憶はあるかもしれませんが、記録はありません。

このようにカタクチイワシの回遊説は定性的には問題のない説明です。一方、報告されている斃死魚はタチウオの他に、スズキ、クロダイ、ボラ、シログチ等です。タチウオ以外は、何れも河口を生態域としています。カタクチイワシは沿岸域を回遊しますが、わざわざ、河口域を選んで回遊することはないでしょう。それでも、カタクチイワシの回遊とともに移動したメチル水銀水塊が満潮とともに海岸線に押し寄せるとの説明があります。ただし、カタクチイワシの回遊に従属して移動するはずのメチル水銀水塊が、急に満潮という潮流に従属するという説明に納得するわけにはいきません。先の研究者たちは、正に、予断の正当性を、その都度探し出し、丁寧に説明しているに過ぎません。

タチウオとそれ以外の魚の斃死量を、魚種(水俣・津奈木地先分:芦北海域部)として記します。タチウオ(505 kg:13054 kg),スズキ(175 kg:628 kg),クロダイ(460 kg:592 kg),ボラ(553 kg:290 kg),シログチ(209 kg:769 kg)です。タチウオ以外の魚がカタクチイワシを専らの食餌にしていないので、斃死量の地理分布にタチウオほどの差がないとの説明もほぼ正しいでしょう。しかし、細かく時間・地理分布をみると、スズキの斃死は水俣地先で、2月・3月に発生しましたが、工場廃液が流出していたにもかかわらず4月以降は発生していません。7月に湯浦地先、8月・9月に芦北地先、9月・10月に田浦以南海域で発生しています。4月、5月、および6月の3か月間は両地域でスズキの斃死は発生していません。その3か月間に限ってスズキが外洋に移動していたはずはありません。水俣地先や芦北海岸へのスズキの斃死の閾値を超えるメチル水銀負荷量が時間的にも地理的にも連続していなかったことになります。少なくとも連続排出されていた工場廃液だけのメチル水銀負荷量では、4月・5月・6月にスズキの斃死の閾値を超えなかったことが示唆されます。また、1959年10月30日までは八幡プールから工場廃液由来のメチル水銀が不知火海へ排出されていました。にもかかわらず8月から10月の魚斃死が水俣地先で発生せず、芦北以北海岸だけで発生しています。したがって、工場廃液以外のメチル水銀負荷源が7月から10月という特異的時期に、特に芦北海岸に濃厚に加わったことが期待されます。7月・8月の稲イモチ病対策に大量散布された水銀系農薬由来のメチル水銀負荷であれば、時間および地理分布特異的に芦北海岸のみならず出水における急性水俣病患者および魚の大量斃死の発生を矛盾なく説明できるのではないでしょうか。

「農薬説」の拠り所は、季節差です。稲イモチ病対策としての水銀系農薬の散布が7月・8月に行われることから、季節要因として7月を境に7~9月、10~12月、1~3月、および4~6月に分類して臍帯中メチル水銀濃度の対数値を従属変数として重回帰分析を行いました。4~6月生まれの臍帯中メチル水銀濃度が有意に最小であったことに酔いしれました。観察期間を水銀系農薬散布が普及した1955年7月から工場廃液の排水に完全循環式を採用した1966年6月までとすると、臍帯メチル水銀濃度は、1~3月>10~12月>7~9月>4~6月でした。しかし、最初の目論見の7~9月が最大であるという結果ではありませんでした。長い間、4~6月が最小の季節差7月・8月の水銀系農薬の散布によって導かれたと堂々と言い放っていました。正に、定性的には正しいのですが、臍帯中メチル水銀濃度が1~3月>10~12月>7~9月>4~6月の順であることの説明から逃げていました。

原田先生の別の論文に、胎児性水俣病患者(以下、胎児性患者と記す)が9月・10月に多く生まれていることが記されています。そして、水俣湾沿岸住民が周年的に魚を多食する、最も多食するのが最漁期である5月~7月、比較的少ないのが12月・1月、という記載です。12月・1月に妊娠すれば9月・10月の出生です。水俣湾魚介類のメチル水銀濃度が濃厚であったにもかかわらず、魚食量が少ない時に妊娠すれば、胎児性患者として生まれる可能性があったと解釈出来ます。一方、魚食量が多いと受精卵の着床が出来ずに流産する可能性があるということになります。臍帯中メチル水銀濃度の高い順の出生月の括弧内に受胎月を入れてみました。 1~3月(4~6月)>10~12月(1~3月)>7~9月(10~12月)>4~6月(7~9月)となります。水銀系農薬散布の影響の強い順(魚介類のメチル水銀曝露量が高いと考えられる順)に並べれば、7~9月>10~12月>1~3月>4~6月ですが、上に記したように、魚斃死は10月までの発生です。したがって、不知火海環境への水銀系農薬由来のメチル水銀量は11月には相当に落ち込むと考えました。 したがって、7~9月と4~6月の海水中メチル水銀レベルの差はかなり大きいと考えられます。魚食量の多い順に並べれば、4~6月>7~9月>10~12月>1~3月となりそうですが、原田の報告による「周年的に魚を多食する」を基本とすれば、5月~7月>12月・1月にのみそれなりの差があると考えられます。

そこで、魚介類のメチル水銀濃度×魚食量で表すことのできるメチル水銀曝露量の大きい順の並びを構築しました。7~9月>10~12月>1~3月>4~6月が予想できます。この並びが「受精卵の着床の難しさ」を表しているとすれば、メチル水銀高濃度曝露者の臍帯の欠損率の高さの並びと解釈出来ます。これを妊娠月として括弧内に出生月を入れると、7~9月(4~6月)>10~12月(7~9月)>1~3月(10~12月)>4~6月(1~3月)となり、括弧内が臍帯中メチル水銀濃度分布における高濃度部分の欠損率の高い順、すなわち臍帯中メチル水銀濃度の低い順の並びになると考えます。それらを高い順に並べ替えると、1~3月>10~12月>7~9月>4~6月となります。出生月別の臍帯中メチル水銀濃度について最小限の矛盾に留めた説明に辿り着きました。

最小限の矛盾は唯一、魚食量順の設定にあります。10~12月>1~3月なのか1~3月>10~12月は微妙です。しかし、魚介類のメチル水銀濃度で10~12月>1~3月は明らかです。したがって、メチル水銀曝露量は7~9月>10~12月>1~3月>4~6月の順でしょう。

1955年からの5年間の水俣市や津奈木町、また出水市米ノ津の出生数の月分布がそれぞれ1~3月>10~12月>7~9月>4~6月であれば、因果関係の評価の5つの原則【①関連の強固性,②関連の一致性,③出来事の時間性,④関連の特異性,および⑤関連の整合性】を丸呑みするほどのデータが得られることになります。①関連の強固性→水銀系農薬由来のメチル水銀濃度は散布時に最も高く、散布前に最も低くなる→7~9月>>4~6月,②関連の一致性→水俣・津奈木・米ノ津のデータが一致,③出来事の時間性→水銀系農薬散布前の5年間(1950~1954年)の出生数の月分布が、1~3月>>4~6月でなく、1~3月>4~6月であれば、水銀系農薬散布が原因で1~3月>10~12月>7~9月>4~6月と言う結果(因果関係)が得られたことになる,④関連の特異性→4~6月の出生数が少ない→受精卵の着床が制限されたという特異性がある,水銀系農薬の散布時期に特異的に受精卵の着床が制限されたという特異性がある,1~3月の出生数が多い→水銀系農薬の散布時期から最も離れた時期の受精卵の着床への制限は小さかった,⑤関連の整合性→7月・8月・9月の妊娠数が少なければ4月・5月・6月の出生数も少ない→ヒトの妊娠期間が280日であるという生理学・生態学的整合性が得られる、となります。したがって、残された調査はメチル水銀汚染地区かつ魚介類摂取量の多い集団(自治体)の1950年~1954年・1955年~1959年の人口動態統計から出生月分布および死産月分布を検索することだと思います。人口動態統計の調査は実験ではありません。統計が残っておれば誰でも役所に行けば閲覧可能です。

最終章としての「我が国のメチル水銀汚染」について総合的考察というより、熊本水俣病が単なる工場廃液による公害でなかったことを披露してきました。水銀系農薬の散布という米石高を驚異的・奇跡的に増やした(1954年5900万石→1955年8000万石)手段が、日本全土をメチル水銀汚染列島にしました。欧米人はアジア人の母国が分からないそうです。メガネを掛け、カメラを持っていれば日本人と言われた時代もありますが、研究者の間では、「頭髪水銀を測れば判る」と言われていたそうです。確かに、全国がメチル水銀に汚染されたのは事実ですが、その間に日本人の平均寿命が伸び、男女共世界一長寿になりました。平均的なメチル水銀曝露による健康影響が深刻ではなかったと言わざるを得ません。一方で、メチル水銀の内部曝露のほとんどが魚介類の摂食によるものです。国民が白米でなく玄米を食べていたら、相当量のメチル水銀に曝露されたと思われますが、当時のビタミンB1摂取法は、玄米でなく麦入りご飯だったことから、米飯によるメチル水銀曝露はほとんど無かったと言えるでしょう。一般人が平均的な魚介類の摂食量で、初期の「水俣病症状=メチル水銀中毒」、すなわち手袋・靴下型感覚障害の症状を呈することはなかったと思われます。しかし、日本列島の各地で「水俣病の疑い」の患者は多数出ました。とくに閉鎖系水域の魚介類を多食した人々には、手袋・靴下型感覚障害が出現していた可能性は否定できません。しかし、魚介類に含まれるタウリンn-3系高度不飽和脂肪酸(IPA,DHA)がそのような神経症状を緩和・修飾した可能性は十分あります。玄米摂食によるメチル水銀曝露の場合、健康影響は魚食の場合より深刻だったことが予想できます。

熊本水俣病および新潟水俣病は基本的にメチル水銀の濃厚汚染がありました。前者は工場廃液、後者は阿賀野川河口から5 kmに架かる泰平橋の左岸下の河川敷に野積みした水銀系農薬の紙袋の梅雨末期の洪水による流失が、濃厚汚染源でした。阿賀野川流域と関川流域(関川第五水俣病)は大米作地帯です。阿賀野川流域の人々が特異的に川魚を多食することはよく知られています。上越地方の人々の川魚摂食量が阿賀野川流域の人々と同等であったら、とんでもないことが起きていたことでしょう。関川流域には15人の水俣病が疑われた患者がいます。患者宅の猫狂死も報告されています。関川第五水俣病は、同時に猫狂死が報告されていることから生態学的な裏付けが得られていることになります。

有明海第三水俣病では9人の水俣病患者がいます。世間的・社会的にはシロ判定(=水俣病でないこと)になっていますが、第四章を読み返していただければ、「疫学調査で」彼らが水俣病であることを証明していると思います。ただし、猫狂死は報告されていません。有明町はカタクチイワシの産地ではありません。ネコが海岸で盗み食いのできる雑魚が放置されていなかったのでしょう(?)。9人の水俣病疑い患者が居たのですから、よくよく調べれば猫狂死が有ったのではないかと思います。

一方、閉鎖系内湾である徳山湾(第四水俣病)では3人の水俣病が疑われる患者、また、鹿児島湾奥(第六水俣病)では4人に手袋・靴下型感覚障害の症状があったと報告されています。両者ともに猫狂死の報告はありません。したがって、余程の魚の多食者だけに健康被害があった可能性はあるでしょう。なお、1960年2月に鹿児島県栗野町や大口市で30匹超の猫狂死が報告されています(南日本新聞,1960. 2. 26-27)。これほど多数の猫狂死が同時発生しています。記事では行商の魚を食べたとされていますが、連続性がないことから、それらの魚が鹿児島湾産であったとしても、鹿児島湾奥がメチル水銀濃厚汚染状態であったとは考え難いです。むしろ動物愛護に反する行為があったのではないかと思います。 

メチル水銀汚染といえば、水俣病を想起します。しかし、メチル水銀の連続汚染であれば、必ず生態系の異常が発生すると考えています。そうすると、不知火海沿岸の各地で猫狂死が報告されていますが、阿賀野川流域では、1964年7月上旬の水銀系農薬の野積み・流失後からの10か月間に39匹の猫狂死が、1年間に26人の急性・亜急性の水俣病患者が発生しています。それ以前にも1963年2月に2匹、1964年1月~5月に1匹の猫狂死が報告されていますが、発生地が河川沿いであることだけが共通点であり、発生の時間と場所に連続性がありません。したがって、工場廃液由来の公害を説明するデータではありません。昭電鹿瀬工場が操業を中止したのは1965年1月10日です。新潟水俣病では昭電の操業中止後ほぼ10年間に認定患者だけでも700人近く発症しています。しかし、猫狂死は報告されていません。動物間の寿命の違いを考慮する必要がありますが、まだ気付いていない新潟水俣病の発生原因があるのかもしれません。

これで「我が国におけるメチル水銀汚染」の最終章を終わろうと思います。ささやかではありますが、これからも視点を変えながらメチル水銀汚染をしつこく扱って行きたいと考えています。長々とお付き合い、有難うございました。ここで、メチル水銀に関する新規投稿は少しお休みします。その間は、以前の海生研OB会ブログへの投稿で姿がないのを、水俣病関連過去ログに再投稿したいと思います。

公開日 2019年3月25日作成者 tetuando