1965年5月31日に阿賀野川下流域における水俣病患者5人の存在が新潟大から新潟県へ報告されました。それから50年、2015年5月31日が新潟水俣病公式確認50周年でした【1965年6月12日(新潟大学・新潟県合同会見日)を公式確認日とする場合もあります】。新潟水俣病の初発は下山地区(阿賀野川河口から1.5㎞の河口に向かって左岸集落)の住人で、初発は1964年8月下旬に発生し、続いて10月に2人、11月に1人の下山地区の4人と10月に発症した津島屋地区(阿賀野川河口から3㎞の下山の隣の左岸集落)の1人の合わせて5人が新潟県に報告されました。昭電鹿瀬工場は 1965年1月10日に操業を中止しましたが、前年暮れ(鹿瀬工場操業中)までの発症者は新潟県に報告された5人に加え、12月に発症した兄弟堀地区(河口から 6.3kmの右岸集落)の1人の小計6人です。

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その後の患者調査により1965年7月までに合計26人【左岸1.5㎞~5㎞の16人男13人・女3人)5km~8kmの 2人(二人は):右岸河口の松浜地区~5kmの  0人;5㎞~8㎞の8人全員男】の急性・亜急性患者(5人死者全員男)の発生が確認されました。患者は、操業中止後(中止前5カ月間/後7カ月間;6人/20人)、左岸域、および男性に偏って発生しました。男性に偏ったのは何故でしょう。一般に魚食量は男>女です。定量的にその差を示すと、一般家庭の夫婦の差であれば切り身一切れ(25~50g)といったところでしょう。しかし、魚食に偏った漁師家庭の場合、定量化は難しく、男女差は様々でしょう。それでも阿賀野川下流域での魚食量男女差が、急性・亜急性の水俣病患者における男性への偏りの要因であったと思われます。さらに、この男性に偏った急性・亜急性患者の発生、また、最初(8月下旬)と二人目(10月)の発症との間に1か月以上の空期間があり、患者の発生が不連続*1)だったことが、長期連続ではなく短期濃厚のメチル水銀汚染であったことを説明しています。河口域の川幅が約1kmと広い阿賀野川下流において26人の患者の地理分布で、左岸域18人、さらに泰平橋(河口から 5km地に架かって)より下流域に 16/18人と偏っていることから、汚染源(発生)域は、下山・津島屋河岸域(泰平橋より下流の左岸域)であったこと、また、ネコ狂死が津島屋で初発したことも、そこに(左岸域・津島屋付近に)汚染発生域地があったことを説明しています。まさに、患者の初発に係る1964年7~9月にはその比較的狭い水域の川魚がメチル水銀に濃厚汚染されたことが想起されます。26人の急性・亜急性患者発症の時間・地理分布は川魚の季節(生殖行動)依存の回遊経路に一致しています。このような事実があるにもかかわらず、世間認識は汚染発生地が、泰平橋より下流の左岸域ではなく、そこから 60km上流の昭電鹿瀬のアセトアルデヒド生産工場に有るとしている。(*1);患者発生が不連続であったことを重要視するのは、26人の急性・亜急性患者でさえ異なる生態系の異常が別々の時間・地理分布で発生したと捉えることが出来るからです。例えば、女性患者3人はいずれも一日市地区住人ですが、同地区の男性患者が最後に発症した1965年4月から1か月以上いた1965年6月・7月に発症しています。また、阿賀野川下流域における26人の急性・亜急性の患者および中上流域から下流域におけるその他の650人を超える慢性患者の発症において、それぞれの時間・地理分布は不連続・不一致です。すなわち、それぞれの患者は、原因が等しく阿賀野川のメチル水銀汚染ですが、それぞれ異なる状態・条件下で発生したと考えられます。

昭和電工鹿瀬(かのせ)工場は河口から65㎞上流で操業しており、1965年1月10日(新潟水俣病の公式確認の5カ月前)に操業(水銀を触媒としたアセチレンからアセトアルデヒドの生産)は中止しました。急性・亜急性患者およびネコ狂死阿賀野川流域の河口から8km~65㎞の中・上流域において発生したという報告はありません。したがって、昭電鹿瀬の工場廃液が急性・亜急性水俣病を発生させたとする因果関係特異性(メチル水銀汚染源の発生地で最も重篤なメチル水銀中毒症=水俣病が発生するという特異性)は確認されていません。政府見解では工場廃液をメチル水銀汚染源と言わず、巧みな言い回しで阿賀野川流域における長期的メチル水銀汚染基盤としています(科学的に証明していない・まさに見解に止まる)。世間が認識しているのは新潟水俣病裁判(民事訴訟;昭電の流したメチル水銀に汚染された川魚を住民=原告が摂食したことで水俣病になった。被告は補償せよと訴えた)の判決であり、昭電はメチル水銀を流さなかったことを証明できなかったことで敗訴しました。実際、量は不明ですが昭電鹿瀬工場がメチル水銀を流したことは科学的に証明されています。民事裁判では中毒が量(昭電鹿瀬が排出したメチル水銀量)に依存して発生することを重視せず、質(昭電鹿瀬が流した物質がメチル水銀であること)によって水俣病が発生したと裁定しています【本来の中毒学において、中毒とは閾値を超えて発現し、発症率(反応)は量に依存すると説明される ⇔ 昭電鹿瀬の操業中止前にメチル水銀曝露量が中毒閾値を超えたが中毒症状は発現せず、操業中止後にメチル水銀の曝露なしに中毒症状が発現したとする遅発性水俣病には中毒閾値の存在が否定されている】。

1960年~73年までの14年間における新潟水俣病認定患者520名の発症の時間分布(地理分布は含まず)が報告されています。ヒストグラムを数値化(年度・人数)すると、1960・,61・,62・,63・13,64・50,65・115,66・41,67・67,68・57,69・64,70・54,71・30,72・16,73・5 と読めます。年間発症数なので季節分布は分かりませんが、65年・67年・69年に発症数の極大が見られます。

メチル水銀汚染源が1つであれば水俣病の発症(中毒)時間分布は正規分布するはずですが、新潟水俣病患者520名の発症時間分布は正規分布していません。65年・67年・69年に発症数の極大を基に3つの正規分布が重なった分布図と見なすことが許されるのであれば、①阿賀野川中流住民主体の60年~67年(極大&中央値)~73年;慢性発症,②阿賀野川下流域住民主体の64年~65年(極大&中央値)~66年;急性・亜急性発症,および③阿賀野川中・下流住民主体の64年~69年(極大&中央値)~73年;②を起因とする慢性発症の3つと言えそうです。

①と③の慢性発症【専門家は遅発性水俣病*2)と説明しています】を政府は昭電鹿瀬の工場廃液が基盤とし、原因という文字で表しません。慢性発症の時間分布は、原因が稲イモチ病対策の水銀系農薬の大量散布であることを指している可能性が高いのですが、政府は、それを完全に否定しています(*3)。政府見解の基礎資料は、新潟水銀中毒に関する特別研究報告書(科学技術庁研究調整局,1969)です。しかし、当の報告書に、水銀系農薬が汚染源であるという可能性が全くないという記述はありません。一般人がその報告書を読む・理解する機会が無いことを見込んで完全否定したに過ぎまないといって良いでしょう。むしろ、この完全否定が必要だった理由に原因の真実が隠されていると考えてしまいます。*2);曝露量が閾値(threshold)を超えて中毒発現に至るのが教科書的な中毒(学)ですが、昭電鹿瀬の操業中止から数年~10数年を経た中毒発現を説明できないので、メチル水銀中毒は遅発発現(発症)することがあるとした非科学的な説 だと思います⇒ しかし、昭電鹿瀬の工場廃液を唯一のメチル水銀汚染源と特定するためには遅発性水俣病が存在しなければ説明に窮します。50年間も科学を蔑ろにしています。八代海沿岸住民における同様の発症に対しては、慢性水俣病と呼び、遅発性水俣病とは呼んでいません。(*3);政府見解では「 長期汚染の原因は主として昭和電工鹿瀬工場の廃水であり、阿賀野川流域に散布された農薬による汚染は無視し得る」と記しています(新潟水銀中毒に関する特別研究報告書,p572,科学技術庁研究調整局,1969)。

ところで、水俣病特措法においてチッソの操業中止後18か月を過ぎると時間外とし、八代海沿岸では胎児性患者が発生しないことが想定されています。しかし、八代海沿岸の水俣病が、新潟と同じ工場廃液による『公害』であるのなら、遅発性発症に時間外は設定できないのではないでしょうか。一方、新潟では昭電の操業中止後23か月超が時間外です(*4)。時間外の根拠がアセトアルデヒド生産中止であるならば、このズレは何処から生じたのでしょうか。(*4);阿賀野川流域で胎児性水俣病との認定者は1人に限られています。行政では新潟水俣病の公表後、直ぐに住民(とくに阿賀野川下流域で)の頭髪総水銀濃度を測定し、50ppmを超える妊婦には人工妊娠中絶を、そのような女性には妊娠を控えることを要請した。行政では、そのお陰で胎児性患者が発生しなかったと説明している。

昭電鹿瀬工場の操業中止24年後(1989年12月)も汚染レベル(0.4ppm超)の川魚が検出されたことを以って(汚染レベル9匹/総検体23匹)、工場廃水の環境汚染影響が操業中止後も続いているとの主張があります(吉田三男,怒りの阿賀,pp22,あずみの書房,1991)。1989年に工場廃液の影響が残っているのであれば、工場の操業中止後の水俣病の発症形態は遅発性ではないことになると思います。それに、1976年10月には、環境浄化のふれ込みで、昭電鹿瀬排水口直下の河川底から5.4㎏の水銀を浚渫・除去しています。しかし、そのHg量は、阿賀野川流域で散布された農薬由来の水銀量(16.5㌧38.7㌧)に遠く及びません。1976年10月(浚渫・除去)以降に工場廃液由来の水銀の影響は無いと考えるべきでしょう。1989年12月の汚染レベルの川魚の水銀汚染源として、水田に残留した農薬由来の水銀であった可能性が極めて高いことが示唆されます。水銀系農薬以外のどんな水銀の存在が考えられるのでしょうか。まさか、5万年前の只見川・阿賀野川流域の沼沢火山の火砕流を持ち出すのでしょうか.....。

水俣湾では食物連鎖の下位から比較的整然と【プランクトン→魚の斃死(大量斃死ではない)→ネコ狂死;54年に頻発・ヒト発症;56年から続発】生態系の異常が発生しました。1956年~58年の昭電のアセトアルデヒド年間生産量は、1951年~53年のチッソのそれらと同等量でした。その頃、水俣湾沿岸で渡り鳥・カラスの飛行中の落下が多数見られていますが、阿賀野川流域では全く観察・報告されていません。一方、阿賀野川下流域ではネコ狂死も急性・亜急性患者も1964年8月~65年7月までの同時期の発生・収束でした。両者ともメチル水銀汚染ですが、汚染形態は異なっており、アセトアルデヒド生産工場が在ったという事のみ一致しているに過ぎません。その上、百間排水口(メチル水銀の環境への出口)は水俣湾内にありましたが、昭電鹿瀬の排水口は下流の下山・津島屋には無く、それより65㎞上流に在りました。確かに、政府見解では鹿瀬の工場廃液は長期メチル水銀汚染の基盤であって汚染源と表記していません。巧みな言い回し?!?というより逃げの一手のようです。

チッソと昭電のアセトアルデヒド生産方式は異なりますが、反応槽における化学反応系(アセチレンの水銀触媒による水添加反応)はほぼ一致していますので、メチル水銀イオン(CH3Hg+)が副生したのは事実でしょう。CH3Hg+は硫酸溶液中の溶存メチル水銀です。アセトアルデヒド(CH3CHO)の沸点は21℃なので、反応槽をとくに加熱せずともCH3CHOは蒸発し、その蒸気は冷却されて貯留槽に溜まりますが(収量の効率化のため、初期の加熱・蒸留法を後に減圧・真空法へ変更しています)、溶存したCH3Hg+は理論的には蒸発しないので貯留槽に移りません。ところで、水添加反応のためのチッソ地下水昭電阿賀野川の河川水を使いました。

海岸立地のチッソの地下水多量塩素イオンCl-)を含んでおり、反応槽においてCH3Hg+のほぼ全量がCl-と反応し、塩化メチル水銀(CH3HgCl固体=結晶)が多量に生成したことが期待されます。CH3HgCl結晶は、その物理化学的性質によって低温で容易に昇華します。そのため、チッソの貯留槽には、反応槽で気化・昇華したCH3CHO(アセトアルデヒド;上層)とCH3HgCl(塩化メチル水銀;下層)が移動し、滞留したでしょう。上層液を製品とし、下層液を工場廃液としたことが知られています。一方、昭電のCH3Hg+は阿賀野川の河川水に含まれるCl-に相当する量のCH3HgClの生成に止まり、それらが貯留槽に移動したはずです。昭電は間違いなくメチル水銀を流出させましたが、その量は酢酸フェニル水銀系農薬の散布によるメチル水銀量の数千分の一程度だと考えられます(ただし、裁判では昭電は一日当たり500gのメチル水銀を流したと裁定されています。一方で、チッソのメチル水銀排出量は一日当たり10~110gと推定されています。アセトアルデヒド生産量がチッソの 1/4以下の昭電のメチル水銀排出量の方が5~50倍多い?!?という理解不可能な数字が行き交っています)。昭電鹿瀬工場のアセチレン加水反応槽で副生した塩化メチル水銀の科学的予想量からすれば、工場廃液がメチル水銀汚染源の主体だと説明できません。かといって政府見解にある工場廃液が長期汚染の基盤であることを否定する直接的・科学的データはありません。昭電鹿瀬の工場廃液にメチル水銀が含まれていたことは事実であり、科学的に説明されています。新潟水俣病問題(民事裁判の争点)を定量的に捉えることなく(昭電鹿瀬工場が流したとされる 500gのメチル水銀量は急性・亜急性水俣病を発生させる量を逆算・推定した量に過ぎない)、定性的な事実(鹿瀬工場の排水溝の苔からメチル水銀が検出された)だけで説明しています。疫学上の因果関係の評価において量反応関係が成立してなければ、その因果関係は存在していないと判断せざるを得ません。定性的評価は、正に、逃げの一手に他ならないと思います。

それでも、昭電鹿瀬工場からメチル水銀以外の重金属(Hg・Fe・Mn等々)が流されていたのであれば、メチル水銀中毒を加重的・加速的に重篤にした可能性は高いと考えています。水俣湾沿岸の自然発症(狂死)ネコの腎臓中総水銀濃度よりも阿賀野川下流産川魚で飼育したネコ(衰弱死⇒発症死でない⇒脳のメチル水銀濃度は水俣の自然発症ネコのそれらよりかなり低く、メチル水銀中毒が致命症でない可能性を否定できません)のそれら方が断然高いという記録があります。昭電が新潟水俣病患者の訴えに負けた民事裁判は、結果的には正しいと思います(昭電が廃液処理を怠り、メチル水銀を流したという過失責任は確かにあります)。

阿賀野川最上流は阿賀川です。阿賀川は福島県の大河であり流域は米作地帯です。阿賀川流域で散布された水銀系農薬由来のHgが阿賀野川を加重的に汚染したことは否定できないでしょう。阿賀川のデータではありませんが、福島市の水源としていた阿武隈川から0.6ppmの高濃度水銀の排水基準(*5)は0.5ppbなので、その千倍超]の総水銀が検出されています(朝日新聞, 1974.11.2)。また、新潟県のもう一つの穀倉地帯である上越の関川流域でも16人に水俣病症状があると診察されています。関川流域ではアセトアルデヒド生産量でチッソに続く第二位のダイセル新井工場が操業していました。(*5);水銀の環境基準は設定されていません⇒水銀のクラーク定数は80 ppb(μg/kg)であり、分析技術が高ければ自然界;海水などから常に数 ppt (ng/L)程度の無機水銀が検出されます。

新潟県上越地方を流域とする関川最下流および関川最下流に流れ込む保倉川最下流で捕獲されるニゴイは2013年の時点でも総水銀で0.4ppm超、メチル水銀で0.3ppm超の汚染魚であり、1974年以来漁獲の自主規制が続いています。新潟県は、関川下流域環境のメチル水銀が汚染レベルに留まっている原因は関川最上流の支流である白田切川の火山性水銀であると言います。胡散臭い自然災害説です。鹿児島湾と同様に、自然由来の水銀汚染であれば、補償・環境改善への支出は無くて済みます。自然災害とは、行政にはこの上もなく都合の良いもののようです。

阿賀野川流域住民は習慣的に魚影の濃い川魚を蛋白源として多食してきました。米作地帯の川魚のメチル水銀濃度は農薬の散布時期であれば5~10ppmに達しています。①10(5)ppmの魚を毎日200(400)g食べる者は2か月後には閾値を超え中毒発現するでしょう。②10(5)ppmの魚を毎日100(200)g食べる者は500日後には閾値を超え中毒が発現しますが、50(100)gでは中毒閾値を超えません(中毒しない)。②の者であっても時に(10日に1日程度)1kg/日を超えるような爆食いをすると①よりも早く閾値を超える可能性があります。したがって、メチル水銀汚染魚の継続多食あるいは爆食がメチル水銀中毒の最大のリスクです。ネコのように必須栄養素としてのタウリン摂取のために継続的に魚食が必須・必然である場合は、メチル水銀汚染魚の摂食によってメチル水銀中毒が発現するでしょう。複数のネコ狂死などの生態系の異常が確認されている関川流域で16人のメチル水銀中毒者(認定されていません)というのは、多食者が少なかったに過ぎません。関川流域の住民の川魚摂取習慣が阿賀野川流域住民並みであれば、大変なことになっていたと思われます。

昭和電工鹿瀬が訴えられ、関川流域で操業したダイセル新井が訴えられなかった差は、阿賀野川で急性・亜急性患者(20ppmであれば300g/日×15日で発症)が発生したことに加え、両河川流域住民の川魚摂食習慣に差があったことが考えられます。関川のメチル水銀中毒患者(認定されていません)がダイセル新井工場より上流域に居住していたことも何かしら影響したのかもしれません。

2015年6月6日投稿済....再掲・訂正&「加筆・追記」
2017年11月3日再投稿(加筆・訂正あり)